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井伊直政は本当にイケメンだった?戦国時代のイケメン武将はどんな人?

2019年5月16日


 

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おんな城主 直虎

 

今回は井伊直政(いいなおまさ
)
について取り上げます。2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎(おんなじょうしゅ なおとら
)
』で、井伊直政が遠江国(とおとうみのくに
)
井伊谷(いいのや)所領(しょりょう
)
を回復するために活動していたことを思い出した人がいるかもしれません。

 

また、井伊直政(いいなおまさ)についてはイケメンだったといわれ、そのエピソードも伝えられています。この記事では、前半で井伊直政の生涯について紹介します。後半ではイケメンに関するエピソードを紹介します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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井伊直政とはどんな人?

井伊直政、直虎

 

井伊直政は1561年に遠江国の井伊谷城主(いいのやじょうぬし)井伊直親(いいなおちか
)
の嫡男として生まれました。直政が2歳の時、城主の井伊直親が謀反の疑いをかけられ殺害されました。当時、直政が幼かったため同族に身を隠しながら養われました。

 

 

井伊直政

 

 

1575年に徳川家康(とくがわいえやす)に謁見し、家臣になりました。井伊谷2000石を回復し、戦いでは数多くの武功を挙げました。武田家が1582年の天目山の戦い(てんもくざんのたたかい)で滅亡すると、徳川家康は武田信玄(たけだしんげん)勝頼(かつより)の家臣を数多く抱えました。理由として、三方ヶ原の戦いで家康が大敗したことで武田信玄の軍学を参考にしたことが挙げられます。

 

井伊直政

 

井伊直政には武田信玄の家臣だった飯富虎昌(おぶとらまさ
)
の赤備えが付属され、井伊の赤備えと呼ばれるようになりました。その後、戦功を重ね続け、徳川四天王の1人となりました。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

1590年に関東の北条氏を滅ぼし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移されました。それに伴い、井伊直政は上野国の箕輪城(みのわじょう
)
の城主となりました。

 

徳川家康

 

1600年、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい
)
で徳川家康が率いる東軍に加わります。

 

薩摩藩の島津義弘

 

薩摩(さつま)島津義弘(しまづよしひろ
)
の軍を追撃したときに鉄砲に撃たれました。負傷しましたが、即死することはありませんでした。関ヶ原の戦い後に彦根城(ひこねじょう
)
を築城しましたが、鉄砲の傷が原因で1602年に死亡しました。

 

以降、井伊家は江戸幕府が終わるまで彦根藩主(ひこねはん)を務めました。

 

 

 

井伊直政は本当にイケメン?

井伊直政

 

井伊直政はイケメンだったというエピソードは伝えられています。当時、戦国武将の間では衆道(しゅどう
)
が流行っていました。衆道とは武士の中で男性の同性愛のことをいいます。

 

 

例えば、戦国武将では織田信長(おだのぶなが)森蘭丸(もりらんまる)の関係が有名です。他にも武田信玄と高坂弾正(こうさかだんじょう)の関係が挙げられます。

井伊直政

 

 

徳川家康は衆道をあまり好まなかったようですが、井伊直政とは衆道の関係にあったといわれています。2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、衆道を想像させるシーンがあったことを思い出す人がいるかもしれません。

 

井伊直政はイケメンだったため、徳川家康だけでなく同僚からも衆道の誘いを受けたといわれています。

 

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戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は井伊直政について取り上げました。前半では井伊直政の生涯について紹介しました。井伊直政の生涯を振り返って、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で井伊直親の死後、おんな城主として井伊直虎が井伊家の跡を継いだことを思い出しました。この記事の読者で、同じようなことを思い出した人がいるかもしれません。

 

後半では井伊直政がイケメンであるとエピソードを紹介しました。エピソードとして徳川家康や家康の家臣から衆道の誘いを受けていることが分かりました。

 

おんな城主 直虎

 

2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、菅田将暉(すだ まさき
)
が井伊直政役だったことについて、イケメンという理由で納得できます。

 

黒田官兵衛

 

他の大河ドラマで、井伊直政役を演じた俳優では、2006年の大河ドラマ『功名が辻(こうみょうがつじ
)
』では篠井英介(ささいえいすけ
)
、2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛(ぐんしかんべえ
)
』では東幹久(あずまみきひさ
)
などが挙げられます。

 

最後に、井伊直政のイケメンのエピソードで衆道について取り上げました。衆道については武士だけでなく、平安時代から貴族の間で出世の手段として用いられていたといわれています。衆道と主従関係との関連性にも注目したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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