周泰は陸遜と一緒に戦った事ってあるの?孫呉の英雄の共闘を調べてみた

2019年5月4日


 

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周泰(しゅうたい)の全身の傷を解説する孫権

 

 

体中を傷だらけになって孫権(そんけん)を守った豪傑・周泰(しゅうたい)

 

陸遜

 

 

孫呉(そんご)の武将の中でも1,2を争うほど知名度を持つ陸遜(りくそん)周泰(しゅうたい)陸遜(りくそん)は同じ孫呉の武将ですが、一緒に戦ったことがあるのでしょうか。今回は周泰(しゅうたい)陸遜(りくそん)が一緒に戦ったことがあるのか調べてみたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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周泰と陸遜の戦歴を調べてみると…。

三国志ライター黒田レン

 

周泰(しゅうたい)陸遜(りくそん)が一緒に戦ったことがあるのかどうかを紹介するため、二人の戦歴を調べてみることにしました。周泰と陸遜の戦歴を調べてみると、ほとんど同じ戦場で戦ったことがありませんでした。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

しかし正史三国志(せいしさんごくし)周泰伝(しゅうたいでん)陸遜伝(ふりくそんでん)をこまめに調べていくと、二人が一緒の戦場で戦っている場面を発見。二人が一緒に戦っている場面とは荊州(けいしゅう)攻略戦です。

 

 

 

荊州攻略戦で周泰と陸遜が登場

関羽は神様

 

周泰と陸遜の二人が一緒の戦場に登場するのは、(しょく)関羽(かんう)が守っていた荊州(けいしゅう)を攻略する戦が初登場です。

 

周泰(しゅうたい)

 

 

周泰は荊州攻略戦で侯の位と将軍職を授与(じゅよ
)
されている事から、荊州を攻略する戦で周泰が大きな活躍をしたことが伺えます。

 

 

関羽を討ち取る陸遜

 

 

そして陸遜も荊州を攻略する戦で活躍が認められ、周泰と同じく侯の位と将軍の位をもらっています。しかし周泰と陸遜が同じ戦場に名前が登場するのは、この戦が最後です。

 

 

陸遜

 

 

でもどうして周泰と陸遜は荊州を攻略する戦以前の戦いで一緒に戦わなかったのでしょうか。また周泰と陸遜は荊州攻略戦以降、一緒に戦うことがなかったのはなぜなのでしょう。まずは荊州攻略戦以前に二人が戦うことが出来なかった理由を紹介したいと思います。

 

 

 

荊州攻略戦以前に周泰と陸遜が戦場に登場しない理由とは??

はてなマークな劉備と袁術

 

 

周泰と陸遜はどうして荊州攻略戦以前に二人が戦場で一緒に戦わなかったのでしょうか。それは周泰と陸遜が担当していた戦場が違っているからです。

 

 

曹操

 

 

周泰は赤壁の戦い(せきへきのたたかい)で活躍した後、濡須(じゅしゅ)へやってくる曹操(そうそう)軍を撃退するため、濡須(じゅしゅ)の督として赴任していました。陸遜は周泰が濡須の督として曹操軍撃退の任務を頑張っている頃、孫呉の領土内で反乱を起こしていた山越族(さんえつぞく)の討伐戦を行っています。このことから二人が担当していた戦場が違っていたため、一緒に戦うことがありませんでした。では荊州攻略戦以降、周泰と陸遜が一緒の戦場で戦うことがなかったのはどうしてなのでしょうか。

 

夷陵の戦い

 

 

 

荊州攻略戦以降、周泰と陸遜が戦場に登場しない理由とは??

ハンセン病に侵された徳行者・冉伯牛 冉伯牛(モブ)(疫病)

 

周泰と陸遜は荊州攻略戦以降、一緒の戦場で戦うことはありませんでしたが、どうしてなのでしょうか。それは周泰が亡くなってしまったからです。

 

呉志(呉書)_書類

 

周泰は荊州攻略戦以降、正史三国志(せいしさんごくし)・周泰伝に彼が戦場で活躍した記載がありません。周泰が荊州攻略戦から戦場で活躍しなかった理由は、彼が3年以内に亡くなっていたからです。そのため周泰と陸遜は荊州攻略戦以降、同じ戦場で戦うことがなかったのです。

 

陸遜特集

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

周泰の死亡時期については詳細な事が分かりません。

 

正史三国志・周泰伝も222~229年の間に周泰が亡くなったと大まかな部分しか記載されていません。そのため229年に周泰が亡くなっていた場合、222年に起きた夷陵の戦い(いりょうのたたかい)に陸遜と一緒に参加していたかもしれませんが、どうでしょうか。周泰は荊州攻略戦以降、陸遜と一緒に戦っていませんが、周泰の息子は陸遜と一緒に戦いに参加しています。周泰の息子は周邵(しゅうしょう
)
と言い、父親に似て武勇に優れていました。

 

曹丕

 

周邵(しゅうしょう
)
は文帝・曹丕(そうひ)が濡須へ大軍を率いて攻撃してきた時、曹仁(そうじん)の軍勢と戦い功績を残していたそうです。

 

 

曹休

 

 

また石亭の戦い(せきていのたたかい
)
では周邵も一生懸命戦い、曹休(そうきゅう)軍を打ち破った戦功を立てます。この結果、周邵も父親と同じように将軍の位を孫権から授与されることになります。周泰・周邵は親子揃って陸遜と一緒に戦い、活躍していたのです。

 

■参考 正史三国志呉書など

 

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呉の武将

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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