宛城の戦いで曹操は大切な物を数多く失いました。
その中でも色々な意味でその後に禍根を残した存在が、嫡男曹昂です。
曹昂が宛城の戦いで戦死したので次男の曹丕があとを継ぐことになりましたが…
実はこの曹丕、宛城の戦いの時に宛城にいたって皆さん知っていますか?
今回は宛城の戦いでどうして曹丕は生き残れたのか、それと曹昂と曹丕について色々と話したいと思います。
宛城の戦いで戦死した嫡男・曹昂
宛城の戦いは張繍と曹操の戦いです。この時曹操は張繍に奇襲をかけられ、大敗北と言っていいほどに敗北してしまいます。
曹操を逃がすために数多くの武将が戦死。
曹操の嫡男であった曹昂も曹操に自らの馬を渡して逃がし、戦死してしまいました。
数多くの子供がいた曹操ですが、当然ながら嫡男は一人。それこそが長男であった曹昂。
そして曹昂が戦死してしまったことによって、繰り上がり的に曹丕が嫡男になります。
同時に曹操の嫡男であった曹昂でも宛城の戦いからは逃げられなかった、と考えると宛城の戦いで曹操がどれほど大きな敗北をしたのかがわかりますね。
実は曹丕は宛城にいた!生き残れた理由とは?
さてここでちょっと突っ込みたいのが宛城の戦いが起こっていた頃の曹丕。
この時に曹丕はどこにいたのでしょうか?
実はこの時、曹丕もまた宛城にいたのです。つまり曹丕もまたこの戦いで死んでしまう可能性があったのです。
しかし見事生き残って嫡男となり、そうして文帝として名を残すことになりました。
そんな曹丕が生き残った理由ですが、大きな理由として「子供」であったことが挙げられるでしょう。この時の曹丕はまだ10歳(もしくは11歳)でした。
宛城の戦いでは嫡男である曹昂すら戦わなければ危険な状態でしたが、そんな年端もいかない少年が戦わされることはなく、優先的に逃がされたのです。
張繡と曹丕のその後の会話
ここで少し触れておきたいのが、宛城の戦いで曹操に苦汁をなめさせた張繡です。
曹操は大敗北と言ってもいい被害を受け、曹昂だけでなく数多くの人物をここで失うことになりました。
しかし後に張繡は曹操に降伏、その後は中々良い位置に配置されて一武将として曹操の下で働くことになります。曹操としては当時敵を作りたくなかった、味方が少しでも多く欲しかった、寛大な態度を取る人物だと思われたかったなど色々な理由が思いつきます。
そんな張繡は後にとある頼みごとをするために、曹丕の元に何度か通いました。
そして曹丕は張繡に、ある言葉を投げかけました。
「君は私の兄を殺したのに、どんな顔して私に何度も頼み事に来ているのか」
張繡はこの言葉を言われた後、自分の立場に不安を感じて自害したとも言われています。
曹丕にとって曹昂とは?
曹昂が戦死した時、曹丕はまだ10歳前後。
その頃の曹丕から見て、将来を期待された兄である曹昂とはどんな人物に映っていたのでしょうか。
弟である曹植との七歩の詩などのエピソードから、曹丕たち兄弟は仲が悪い、後継者の座を争い合ってた、そんなイメージを持たれていますが、実は曹丕たち兄弟は手紙のやり取りをしたり、アドバイスを送り合ったりと普通に仲の良い兄弟を感じさせるエピソードも多くあるのです。
しかも当時曹昂は20前後、曹丕とは10歳も違う兄。
そんな兄がある日突然戦死して、自分が繰り上げられたように嫡男になった。曹丕は、曹昂をどう思っていたのか。
成長した曹丕が「亡くなった兄は生きていても限界があっただろうが…」というエピソードもありますが、これを表面だけ受け取って兄を下げているとはどうしても受け取れません。そこになんらかの意図があったのでは、とどうしても想像してしまいますね。
三国志ライター センの独り言
曹丕が宛城の戦いで生き残れたのは、やはり子供であったからというのが大きな理由だと思います。
しかし嫡男が死に、曹操も危機的状況に陥った戦いで逃げ切って無事に生き残った、というのはやはり本人の運もあると思います。三国志風に言えば「天命があった」と言うべきところかもしれませんね。
そんな曹丕が後に文帝になった、では曹昂を失ってなければどうなったのか。
そんな歴史的ifもまた考えさせられる苑城の戦いなのでした。
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