上杉謙信といえば、義のために戦う戦国大名で、無敵の軍団で有名です。上杉謙信については逸話も語り継がれています。今回は上杉謙信の逸話について取り上げていきます。
敵の眼前で酒を煽る上杉謙信
上杉謙信の逸話として小田原城攻めが挙げられます。単騎で城の前で腰を下ろしました。城門の前で酒を飲んだという逸話が語り継がれています。2007年の大河ドラマ『風林火山』では、Gacktが演じる上杉謙信が城門で、独りで座り、酒を煽ったシーンがあります。城兵が鉄砲や弓矢を上杉謙信に向けて放ちますが、かすりもしませんでした。
軍神・毘沙門天を信じていたことで有名です。大河ドラマ『風林火山』では、自分に毘沙門天の加護があることを証明したかったということです。
第四次川中島の戦い―上杉謙信vs武田信玄の一騎打ち―
川中島の戦いとは上杉謙信と武田信玄が北信濃で衝突した戦いのことをいいます。川中島の戦いとは武田信玄に攻められて所領を奪われた北信濃の豪族が上杉謙信に助けを求めたことで始まった戦いのことです。第一次から第五次まであります。その中でも第四次川中島戦いは激戦でした。
第四次川中島戦いは1561年に起こりました。川中島の戦いの中で最も激しい戦いだったといわれています。武田信玄は八幡原に布陣し、別動隊を妻女山に向けて動かしました。上杉謙信を挟み撃ちにする計画でしたが、上杉謙信はその計画を察知して信玄の本陣に向けて兵を動かしました。
夜が明けると、武田信玄の本陣の前に上杉謙信の軍勢が現れました。武田信玄の軍は劣勢となり、武田信繁や山本勘助ら重臣を失います。また、武田信玄の本陣も手薄になり、上杉謙信が単騎で突進します。上杉謙信は3太刀信玄に浴びせたが、信玄は軍配で受け止めました。受け止めた軍配には7太刀の傷があったという逸話があります。
最後に、第四次以外の川中島の戦いについて取り上げます。第一次川中島の戦いは1553年4月に始まりました。この戦いは1553年の9月まで続きましたが、勝敗の決着が付かず終わります。第二次川中島の戦いは1555年に始まりました。
この戦いは200日間退陣しただけで、今川義元の仲介により終わりました。第三次川中島の戦いは大熊朝秀が謀反を起こしたことがきっかけで起こりましたが、目立った戦いにはなりませんでした。第五次川中島の戦いもありましたが、対陣しただけで目立った戦いにはなりました。
ライバル武田信玄の死に涙する上杉謙信
上杉謙信と武田信玄は川中島の戦いを通してライバルでした。上杉謙信は敵同士ですが、武田信玄が塩に困っているときに塩を送りました。
信玄が病気で死んだことを知ると、号泣しました。上杉謙信の家臣は武田を責める好機と主張しますが、謙信は人の弱みにつけ込んで他国を攻めるという卑怯な手段をとるべきではないと反論し、家臣の主張を退けます。
ライバルで友情みたいなものが芽生えていたという印象を受ける人がいるかもしれませんが、上杉謙信の生き方もライバル武田信玄の死に涙した要因としてあるのかもしれません。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は上杉謙信の逸話について紹介しました。逸話として、最初に小田原城攻めにおいて城門前に単騎で座り込み、酒を煽ったことを取り上げました。上杉謙信は度胸があると分かりますが、作り話の可能性が高いです。
次に、第四次川中島戦いで、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちを取り上げました。川中島の戦いの中で最も激しい戦いで、上杉謙信が一騎打ちで突進することができたのか気になります。第一次から第五次までの川中島の戦いで、決着が付かなかった理由や動機については不明な点があります。今後の研究が気になります。
最後にライバル武田信玄の死を聞いて号泣したことを取り上げました。上杉謙信にとって武田信玄というライバルがいなくなると、心のどこかに穴が空いたような感じになり、号泣したのかもしれません。武田信玄の死から5年後に上杉謙信も病気で死にました。
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