三国志を知らない方でも一度は耳にした事のある三国志一の有名人・諸葛亮孔明。
諸葛亮孔明は蜀の丞相として魏を打倒する戦を行ったり、蜀の特産品を生かして蜀の国の経済を立て直したりと政治・軍事両方で実績を残した人物です。
そんな諸葛亮孔明ですが、政治・軍事の他に料理や食べれる植物を発明していたのです。諸葛亮孔明はいったいどのような料理や植物を発明していたのでしょうか。
肉まんを発明した諸葛亮!?
シンプルな肉まんやピザまん、カレーマンなどやわらかい生地の中に美味しい餡が詰まっている肉まん。コンビニには絶対ある食べ物で、寒い冬に食べたらチョーおいしいですよね。
この日本人なら一度は絶対食べた事のある肉まんですが、肉まんを発明したのは日本人ではなく、三国志のチョー有名人・諸葛亮孔明だったのを皆さんご存知でしたか。諸葛亮はいつ頃肉まんを発明したのか紹介していきたいと思います。
河を渡るときに発明された肉まん
諸葛亮は劉備の死後、蜀の南方で反乱を起こした異民族を討伐するため出陣。
諸葛亮は反乱を起こした異民族と戦い幾度も勝利をした結果、異民族たちを降伏させることに成功します。諸葛亮は異民族たちを降伏させたのち、蜀へ帰ろうとしますが、蜀へ帰国する途中にある河が氾濫を起こしてしまい、帰ることが出来なくなってしまいます。
諸葛亮は土地の古老から「この河は人の頭を投げないと静まることがないといわれています。」とアドバイスされます。諸葛亮はこの河を渡れないと蜀へ帰れないので悩みに悩んだ結果、あることを閃きます。
諸葛亮は料理人へ「小麦粉で人の頭の形を作り、その中に牛や豚の肉を詰めた物を作りなさい」と命令。料理人は諸葛亮の命令通りの物を作ります。
諸葛亮は料理人から出来上がったものを河に供え、祈りをささげると河の氾濫が収まります。諸葛亮は河の氾濫が収まると軍勢を率いて蜀へ帰還するのでした。
そして諸葛亮が河の氾濫を鎮めるために作ったお供え物は現在私たちが一度は食べた事のある「肉まん」の起源だったのです。
諸葛亮は蕪を栽培していた!?
諸葛亮は肉まんの他にもあるものを栽培することに成功していたそうです。諸葛亮が栽培していたのは蕪です。
諸葛亮は劉備死後、蜀の南方で反乱を起こした異民族を討伐するため、自ら軍勢を率いて南方へ向けて出陣していきます。しかし蜀軍の兵士は野菜不足で衰弱していってしまいます。
諸葛亮は蜀軍の兵士たちが衰弱している状況を何とかしようと考えた結果、ある案が頭に浮かびます。諸葛亮が考えた案は南方に自生している蕪を調理して食べさせることでした。
蕪は土地が肥えていなくても栽培することが出来、漬物として調理することもでき、栄養価も高いなどメリットばかりある食べ物でした。諸葛亮は衰弱し始めた蜀軍の兵士達へこの自生している蕪を食べさせることにします。
蜀軍の兵士達は諸葛亮から配給された蕪を食べた結果、衰弱していた状況から立ち直り、異民族を討伐する事に成功するのでした。その後諸葛亮は蜀へ帰ってからも蕪を栽培していたそうです。
民衆たちは諸葛亮が栽培した蕪を「諸葛菜」として呼び始めることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は諸葛亮が発明した料理や食べれる植物について紹介しました。
今回の記事を見て、皆さんも知り合いとコンビニへ行ったら「肉まんって蜀の丞相・諸葛亮が作ったんだぜ」ってどや顔で説明してみるのもいいかもしれませんね。その時一言「はじめての三国志に三国志の小ネタがいっぱいあるから見てみなよ」って宣伝してくれるとすごーく助かりますのでよろしくお願いしますね。
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