ゲーム『三国無双』シリーズではスキンヘッドの強面で描かれる典韋。
また、曹操の側近としても著名です。
これほど曹操に可愛がれた典韋、最期は曹操を守るため孤軍奮闘しました。
それでは、典韋のエピソードを綴っていきます。
李永討伐!
若い頃、典韋は「李永」を恨んでいました。
それは同じ故郷の劉氏の仇だったからです。
ある日、典韋は鶏や酒を積んで商人を装い、役人の李永の家の前まで来ました。李永が玄関先に出てくると懐に忍ばせておいた小刀を取り出し、李永とその妻をやっつけます。ここに劉氏の仇討ちが完成。
そっと現場を後にします。
周囲は黒山の人だかりでしたが、あまりの豪胆さに典韋に近づくことはできず、数百人もいながら遠巻きに典韋の後をつけるのが精一杯でした。
しばらく進むと典韋は殺した李永のボディガードに出くわします。ボディガードが両手に武器を構える前に典韋は逃走、彼の名は一気に広まります。なぜなら、村は飢饉に襲われ、役人・李永に対する不満が募っていたからです。
村人も典韋の義侠心に心を打たれました。
対呂布戦
西暦194年。
曹操は呂布を討伐に出かけます。
しかし、呂布の別動隊は夜陰に紛れて曹操軍を包囲、曹操軍は窮地に立たされます。曹操が狼狽して兵を募ると典韋が真っ先に応募してきました。
合わせて十数名が集まり、みな重装備で呂布の元へと向かいます。
典韋は突進しますが、呂布軍は矢を雨のように降らせて対抗。
しかし、典韋はひるまず、なおも前進し、こう告げます。
「10歩以内だ! 10歩以内に降伏しろ、賊軍め!!」
さらに進むと
「10歩になったぞ!!」
続けて言います。
「もう5歩だけ待ってやろう」
呂布軍は、あまりの恐ろしさに震えて声すら挙げられません。
すると典韋は両手に武器を持ち、何度かやり合うと呂布軍は撤退するのでした。
典韋の日常生活
典韋を「都尉」に任命した曹操。常に側に置くようになります。
曹操は数百人の兵に囲まれ、大きな野営で眠っていました。典韋は偉くなってからも謙虚で毎日、曹操のそばにいました。
夜は曹操が寝息を立てるまで仕え、自分の家に帰ることはほとんどなかったそうです。
また、典韋は酒も飲み、大食漢だったので人の二倍は食べました。
給仕をするのも大変で常に数人が典韋のそばにいたと言われます。
曹操はこの豪快っぷりを好み、典韋が長い武器を愛用していたことから、
「典韋がいれば、40キロの檄(長い武器)が二つあるようなものだ」
と噂されるほどでした。
壮絶なる死を遂げる典韋
西暦197年。
曹操は宛城へと進軍します。
張繍が降参したため、彼をパーティーでもてなします。
曹操の傍らには典韋が大きな斧を持って直立不動していたため、みな曹操に酒をつぐときは斧の方を見ていたと言われます。
パーティーから10日あまり経つと張綉は恥をかかされたとして部下とともに曹操の陣営を襲います。
まさか奇襲をかけられると思いもしなかった曹操、かなり焦ります。
戦っては負けてしまうと思った曹操は馬で戦線を離脱、後を典韋に委ねます。
このとき典韋の部下は10名あまり、一人で十人を倒してもそろばんが合いません。
張繍軍の兵は次第に増え、典韋は両手に武器を持って応戦、一振りで槍を10本以上折ったとも言われています。
そして、典韋は傷を負いながらも戦い続け、接近戦に持ち込みます。
張繍軍は彼を捕まえようと肩に槍を突き刺すのですが、近づくことができません。
典韋はさらに突進し、数人の兵を倒します。
その重さで兵が負傷し、典韋は目を見開いて、絶命したと伝えられています。
ようやく張綉軍は近づくと頭を攻撃、ゆっくりと典韋の死を確認しました。
舞陰の地に退却していた曹操、典韋の悲報を聞くと号泣したそうです。
三国志ライター上海くじらの独り言
豪快で義侠心に富んだ典韋。
曹操は典韋の死を自分の息子の死よりも悲しんだと言われます。それほど典韋の忠義が厚かったのでしょう。
曹操は、その恩義に報いるため典韋の子である「典満」を厚く保護し、司馬の職位を与え側に置きました。
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