明智光秀のたたき上げの人生とは?苦労人・明智光秀の生涯を3分で理解

2019年6月11日


 

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明智光秀 麒麟がくる

 

この記事では、これまでの記事を基に明智光秀(あけちみつひで)の人生について紹介します。

前半では苦労人の明智光秀について、後半では織田信長(おだのぶなが)の家臣になってから出世街道を歩んでいく明智光秀について、それぞれ取り上げます。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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苦労人・明智光秀

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

明智光秀の生い立ちについて確定していないといわれています。1528年に美濃国(みののくに
)
の身分の低い牢人として生まれました。史料によっては1526年または1540年に生まれたという説もあります。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では1528年に生まれたという設定です。

 

斎藤道三

 

明智光秀が美濃国に生まれた頃、美濃国は土岐氏が支配していました。建武の新政の頃から約200年にわたって美濃国の守護を務めましたが、大山崎の油売りだった斎藤道三(さいとうどうさん)によって滅ぼされました。斎藤道三が美濃国の守護になると、光秀は家臣になりました。

 

明智光秀は斎藤道三の家臣になりましたが、下剋上で息子の斉藤義龍(さいとうよしたつ
)
によって倒されました。光秀は再び牢人としての生活となりましたが、13代将軍足利義輝(あしかがよしてる
)
の家臣になりました。史料によれば、明智光秀は足軽大将に任じられましたが、近江国(おうみのくに
)
の重要拠点だった田中城(現在の滋賀県高島市)の籠城を任されることもありました。光秀は将軍家の中で重要な地位にいた可能性もあります。

 

足利義昭

 

足利義輝が松永久秀に暗殺されると、15代将軍になった足利義昭とともに地方を転々と逃げ回る日々が続きました。若狭の戦国大名・武田義統(たけだよしずみ
)
を頼りましたが、武田氏は滅ぼされました。後に越前の戦国大名朝倉義景を頼ります。

 

 

 

出世街道を歩む明智光秀

織田信長

 

明智光秀は足利義昭とともに越前国の戦国大名朝倉義景(あさくらよしかげ
)
を頼りました。光秀は美濃国を完全に平定した織田信長(おだのぶなが)上洛(じょうらく
)
を促します。この上洛を促したとき、光秀と信長が最初に出会ったといわれています。

 

馬に乗って戦う若き織田信長

 

明智光秀はこの出会いがきっかけで織田信長と足利義昭の家臣となり、将軍家と朝廷との交渉役を任されました。織田信長の家臣となると、信長から近江国の所領を与えられ、坂本城(さかもとじょう)の築城に取りかかりました。坂本城を拠点とした頃から、光秀は足利義昭と決別しました。将軍足利義昭は京を追放され、室町幕府が滅びました。

 

明智光秀は、坂本城を京都市政と丹波国(たんばのくに
)
の侵攻の拠点とします。丹波国への侵攻については波多野秀治(はたのひではる
)
が抵抗したことにより長期化しましたが、亀山城(現在、京都府亀岡市にある亀岡城)・八上城・黒井城を落とし、丹波国を平定しました。光秀は丹波国を平定したことにより信長から丹波国1国を与えられました。

 

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

1581年に明智光秀は京都御馬揃えの運営を任されるなど、織田信長から重要な役割を任されるようになります。順調に出世街道を歩んでいたと考えられます。安土城で徳川家康(とくがわいえやす)を接待することになり、饗応役(きょうおうやく
)
になりました。

 

しかし、急に信長から饗応役を解かれ、坂本城と丹波国を取り上げられました。代わりに、信長から石見国などが与えられました。当時、石見国など山陰地方は毛利輝元(もうりてるもと
)
の所領で、戦いで奪い取れということでした。信長からこのような仕打ちを受けたことで、本能寺の変を起こすきっかけになったのかもしれません。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は明智光秀の人生について取り上げました。前半は、牢人として過ごした時期があり、足利義昭と織田信長の家臣になるまで不遇な人生だったことを取り上げました。後半では、織田信長の専属の家臣になってから出世街道を歩んでいく明智光秀について紹介しました。

 

織田信長の家臣になってから明智光秀は坂本城・丹波国1国を任されるなど重要な役割を任され、信長から信頼されていたことが分かりました。信長から信頼されていたにもかかわらず、なぜ光秀は信長を裏切ったのか気になります。おそらく、出世街道を歩んでいた光秀にとって、いきなり坂本城と丹波国を取り上げられると燃え尽き症候群に近い状態になったと考えられます。光秀の精神状態が本能寺の変の動機になったのかもしれません。

 

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麒麟がくる

 

 

 

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