『水滸伝』は明(1368年~1644年)の時代に作られた小説です。中国では『三国志演義』に匹敵する人気を誇っております。
モチーフは北宋(960年~1127年)末期の小規模な反乱です。実は『水滸伝』にはマンガやドラマでは、描かれない残酷な個所が存在します。
今回は「本当は残酷な『水滸伝』」を紹介します。
拳3発で人殺しする魯智深
まずは魯智深の話です。魯智深は梁山泊の出家僧です。
背中に刺青があるクソ坊主という意味で「花和尚」と呼ばれています。彼が出家前に俗名で魯達と名乗っていた時の話です。
魯達は渭州(現在の甘粛省の東部)で役人をしていました。そこでストリート・ミュージシャンをしている親子に出会います。親子によると、肉屋の鄭という男から、多額の借金を押し付けられたという話でした。激怒した魯達は親子を逃がして、その後肉屋の鄭を拳3発で殺しました。
それから、魯達は出家して紆余曲折の結果、梁山泊に行くのです。ここまで聞けば胸がスカッとする話なのですが、魯達が肉屋の鄭を殺すシーンがとんでもなく、リアルに描写されています。
鼻血が噴き出る、目玉が飛び出る・・・・・・グロテスクな描写が出てきます。当然、こんなものはマンガやドラマでは描写出来ないのでカットされています。編集者やスタッフの配慮に感謝します。
恐怖の大虐殺を行った武松
2人目は武松です。武松は修行者の格好をしていたので、あだ名が「行者」です。
この人は魯智深と一緒で『水滸伝』の中で、単独ストーリーを持っています。ただし、かなりの話数であり、なんと10話もあるのです。そのため、『水滸伝』の1番の見せ場は、武松の話と言われています。
さて、残酷話は武松の話の後半部です。武松には兄がいましたが、兄嫁とその愛人により殺されました。色々な手を使って武松は敵討ちに成功しますが、やはり殺人なので流刑にされます。
孟州(現在の河南省)まで流刑にされた武松は、そこで威張っていた蒋門神というヤ〇ザをフルボッコにします。やられた蒋門神は知り合いの張団練という悪徳役人に助けを求めます。
「団連」というのは名前ではなく官職名です。張団練は親族の張蒙方と相談します。まず張蒙方は武松を釈放して、部下に取り立てます。何も知らない武松は張蒙方に対して感謝します。
ところが武松は、有りもしない窃盗の罪を張蒙方から着せられました。おかげで再び流刑にされました。しかも護送役人は張蒙方から金を渡されており、途中で武松を殺そうとしました。だが、武術の腕は武松の方が上であり、あっという間に返り討ちにしました。
さあ、ここから武松の復讐が始まります。張蒙方の屋敷に戻った武松は酒を飲んでいた張蒙方・張団練・蒋門神の3人を殺害します。また、屋敷にいる張蒙方の一族や召使いを全て殺害します。彼らは関係無いのに、むごいことです。とにかく、女子供容赦無しです。
散々、やりまくった後に武松は壁に「人を殺したのは武松である」と書きなぐって出ていきました。その後、武松は行者の格好をして世間から姿をくらましました。武松が「行者」とあだ名が付くのは、この時からです。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が『水滸伝』の残酷話です。武松の話は『水滸伝』の残酷話の代表的なものです。武松は単独ストーリーの前半では、冷静な頭の切れる人物として描かれているのです。しかし後半の大虐殺の話では、全くの別人格として描かれています。その結果が、上記の話なのです。武松については、またいつか機会があったらお話をしたいと考えています。
※参考文献
・伊原弘『水滸伝を読む 梁山泊の好漢たち』(講談社現代新書 1994年)
・佐竹靖彦『梁山泊―水滸伝・108人の豪傑たち 』(中公新書 1992年)
関連記事:ところで水滸伝って何?美味いの?中国の明の時代に完成した四大奇書
関連記事:宋江ってどんな人?水滸伝の主人公であり中途半端ヤ〇ザの微妙な最期
【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】