今回は徳川家康の原点として今川義元の人質生活に注目します。徳川家康といえば、幼少期に織田信秀や今川義元の人質生活を送っていた人物で、晩年に江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼしました。
この記事では、前半で今川義元と徳川家康の生い立ちについてそれぞれ取り上げます。後半では今川義元の人質になった頃の徳川家康と今川義元の軍師太原雪斎との出会いについて話を進めます。
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今川義元とはどんな人?
今川義元は1519年に駿河の戦国大名今川氏親の五男として生まれました。今川義元は善得寺に預けられ、修行の生活を送っています。今川氏親の死後に家督争いが起こります。家督争いに勝利し、還俗して駿河国の戦国大名となりました。寺で修行していたときの軍学の師匠だった太原雪斎は今川義元の軍師となります。
今川義元は朝廷との交渉役を担うとともに今川氏親の設計した寄親・寄子制や分国法『今川仮名目録』を引き継ぎます。織田信秀との戦いでは、鉄砲に注目し、鉄砲による集団戦法を実践しました。織田信秀との戦いに勝利すると、三河国を手に入れるとともに松平元康(後の徳川家康)を人質にします。
1560年、京に上るために2万5千の大軍を率いて尾張国の戦国大名・織田信長を攻めましたが、織田信長の奇襲により討ち取られました。
徳川家康とはどんな人?
徳川家康は1542年に松平広忠の嫡男として三河国に生まれました。当初、徳川家康は松平元信、初陣のときに元康と改名しています。当時、松平家は今川義元の支配下でした。幼少期の徳川家康は人質生活を送っています。
最初は織田信秀の人質でしたが、小豆坂の戦いで今川義元が織田信秀に勝利すると、徳川家康は今川義元の人質となりました。
1560年に桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、三河国の岡崎城に入り、今川家から独立します。1562年に徳川家康は織田信長と同盟を結び、この頃から徳川家康と名前を変えます。
1582年に本能寺の変で織田信長が自害した後、1584年に小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と直接対決をします。この戦いは実質徳川家康の勝利で終わりましたが、豊臣秀吉と講話したことで、徳川家康は豊臣秀吉の配下となります。相模の北条氏を滅ぼすと、240万石を与えられ、江戸に移ります。
1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成が率いる西軍を破ると、1603年に江戸幕府を開きます。1615年に大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼした後、1616年に病死しました。
徳川家康の原点は今川義元の人質生活にあり
徳川家康といえば野戦が得意で有名です。徳川家康の野戦好きについて、原点となったのは今川義元の人質生活であると考えられます。人質だった頃に太原雪斎から軍学の講義を受けたといわれています。
太原雪斎の死後、桶狭間の戦いで今川義元が戦死しました。今川義元は2万5千の大軍を率いていたにもかかわらず、わずか数千の織田信長の奇襲により討ち取られました。
当時、徳川家康は寄親・寄子制の優れた点を学ぶとともに桶狭間の戦いで起こっていた弱点も学んでいたと考えられます。結果として、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで大軍を率いるときに役立ったのかもしれません。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は徳川家康の原点として今川義元の人質生活に注目しました。この記事の後半では、徳川家康の政治と戦い方の原点として今川義元の人質だった頃に注目しました。太原雪斎から軍学の講義を受けたことや桶狭間の戦いでの今川軍の敗北が後の家康の戦い方に役立った可能性について触れました。
最後に、今川義元を手本にした人物として織田信長が挙げられます。徳川家康とともに今川義元から学んだことと今後の領国経営にどのように生かしたのでしょうか。今後の課題にしたいと思います。
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