【超迷惑】下関戦争の賠償金で幕府も明治政府も四苦八苦


 

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黒船(ミシシッピ号)

 

幕末のハイライト下関戦争(しものせきせんそう)は幕府が孝明天皇に対して攘夷(じょうい)実行を約束したのを受けて、長州藩が1863年5月に馬関海峡を封鎖し

航行中のアメリカ、フランス、オランダの艦船に無通告で砲撃を加えた事件です。

 

この事件が後に四カ国艦隊による下関砲撃事件を招き長州は敗北、攘夷(じょうい)の無謀を悟ります。

下関戦争自体は、同時期の薩英戦争に比較しても被害が軽い戦いでしたが、その超高額な賠償金が幕府、ひいては幕府を倒した明治政府まで

苦しめる事になります。

どうして、幕府は高額の賠償金を支払う事になったのか?を解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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国家予算の1/4、300万ドルを分捕られた幕府

 

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国艦隊の砲撃を受け敗北した長州藩(ちょうしゅうはん)ですが、

「我々は幕府の攘夷実行の命令を奉じたに過ぎない」と強弁して賠償金(ばいしょうきん)の支払いを拒否します。

これにより、幕府は自分が関係していない賠償金の支払い義務を背負う羽目になりました。

さらに、ここから幕府はさらなる西洋列強の悪だくみに翻弄(ほんろう)される事になります。

 

これは、イギリス公使のオルコックが3か国に提案したものですが幕府に対し、

 

・損害賠償として4カ国全体で300万ドル相当の賠償金を支払う

・瀬戸内海に下関か、あるいは新しく一つの港を開く

 

この二者択一を迫ったのです。

 

四カ国の思惑は、瀬戸内海に新しく港を開かせるのがメインであり、それを選ばせる為に賠償金の金額は過剰な程につりあげられました。

なにしろ、少し前に発生した生麦事件に関するイギリスへの賠償金は幕府が立て替えという形で支払い44万ドル。

その後の薩英戦争でイギリスに敗れた薩摩が支払ったのは10万ドルでした。

 

それに比較しても、下関戦争の賠償金は、6倍弱という巨額だったのです。

この300万ドルは、文久3年の幕府の総歳出金額の1/4にあたり、ただでさえ火の車の幕府財政を圧迫します。

 

四カ国の期待を裏切り、幕府は賠償金のローン払いを提示

 

これだけの賠償金を吹っ掛ければ、幕府は港を開くに違いない。

オルコックを含め、四カ国代表は高を括って待っていましたが、幕府の返答は300万ドルを支払うという通知でした。

 

その頃、徳川幕府は四カ国艦隊と禁門の変で敗北して大ダメージを受けた長州藩に対して第一次長州征伐の最中です。

ここで、四カ国の提案を受け入れ、瀬戸内海のどこかの港を開くと約束すれば、再び攘夷熱が噴きあがり三百諸藩の中には、

長州藩に同情して征伐に反対する藩が出てくる可能性がありました。

 

幕府「もう、新しい開港要求なんか止めてくれ、賠償金なら何とか払うから・・」

 

こうして幕府は新しく開港なんて論外と判断し、300万ドルの償金を3か月に1回、50万ドルずつ6回払いすると提案します。

きっと、幕府が港を開くと期待していた四カ国は見事に肩透かしを食らう事になりました。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

戦争に次ぐ戦争で経費が嵩み、賠償金を支払う前に潰れる幕府

 

幕府は威信にかけて、最初の50万ドルを何とか支払いますが、すぐに賠償金支払いの延期を願い出ます。

長州征伐がまだ済んでおらず、とても3か月に1回では支払えないと、一年の期限延期を申し出てきたのです。

それでも、幕府はなんとか赤字財政を遣り繰りして2回目までは支払いを済ませますが、1866年の3月30日に、

ようやく3回目の賠償金を支払った後で、4回目の支払いの目途が全く立たなくなります。

 

その頃幕府は、第二次長州征伐に踏み切っており、陸海に膨大な戦費を必要とし、お金が無くなったのです。

幕府の考えなしには呆れますが、これを受けて幕府は、水野忠精(みずのただきよ)板倉勝静(いたくらかつきよ)など幕閣六名で連署(れんしょ)し4回目以降の支払い延期を求めました。

しかし、それに対するアメリカ国務長官スーワードが送ったアメリカ大統領の返答は冷淡なものです。

 

「支払い延期に対する十分な担保もなく、取り決めを誠実に実行する保障もない日本政府に対しては、支払い延期を容認できない」

 

アメリカは日本の事情を考えない非情な国だと思いますか?

でも、悲しいかな、これこそが外交の原則論で、幕府の方が非常識なのです。

 

おたくも色々あって財政が苦しいのだろう?それには同情する。しかし、賠償金の支払いはそれとは別で履行(りこう)してくれ

例え、法外に高い賠償金でも条約を結んだ以上は、それを実行するのが国際ルールなのでした。

皇帝になった徳川慶喜

 

ですが、ここで、幕府に大異変が起きます。

第二次長州征伐の途中に14代徳川家茂(とくがわいえもち)が死去し、将軍後見職の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)がスライド式に15代将軍に就任しました。

そこで、改めて慶喜は、賠償金の残額150万ドルの二カ年の支払い延期を要請し今度は受け入れられます。

ところが、それから、(わず)か六か月後、徳川幕府は崩壊しました。

 

樹立された明治新政府は、因果応報のように幕府の残した賠償金、150万ドルの債務を引き継ぐ事になります。

明治政府は財政難に苦しみながらも、1874年、ようやく300万ドルの賠償金を支払い終えました。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

この賠償金騒動には後日談があります。

下関戦争に加わり、賠償金78万5千ドルを受け取った米国務長官スーワードは、

この賠償金は法外に高く上院の承認を得られないとして国家の歳入に入れず、アメリカ公債に変えて保管していました。

やがて、この賠償金額は多すぎ受け取る理由がないという議論がアメリカ議会で起き、

公債をそっくり日本に返還するという運動により、紆余曲折(うよきょくせつ)の末に1884年に日本に返還されたのです。

これが、アメリカらしいフェアネスですが、こうして、返還された賠償金は横浜築港工事に使用されました。

港を巡って支払われた賠償金が、同じく港の整備に使われたというのは歴史の因縁としても相応(ふさわ)しいものですね。

 

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ガンバレ徳川

 

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