その曹丕と仲がよかったのが、夏侯惇の息子の一人である「夏侯楙」です。史実をベースに曹丕や曹叡が魏の皇帝となった時代にフォーカスしてみましょう。
夏侯惇の息子が起こした騒動と皇帝とのやり取りに注目です。
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曹操の娘とゴールイン!
夏侯惇の息子に夏侯楙(次男)がいました。幼いころから曹丕とよく遊び、仲も良かったのです。
やがて、曹丕が禅譲を受けて魏の皇帝の座に就くと、夏侯楙は安西将軍となります。夏侯淵の後を継ぎ、都督関中となり長安(現在の西安)をガードしていました。夏侯楙は兵を巧みに使い、家業を運営。
後に「列侯」と称せられ、曹操の娘とゴールインします。名を「清河公主」と言い、これで友達の曹丕と夏侯楙は義理の兄弟と相成りました。「公主」は古代中国では、お姫様というような意味。
男性の丞相や将軍のように女性の敬称として「公主」が存在し、朝廷で位の高い人物であることを示していました。たいていは皇帝の姉妹や皇太子などと結婚した女性に対して使われます。しかし、皇帝の兄弟姉妹の結婚は政略結婚が多く、必ずしも本人の希望通りになったとは言い切れません。
それが原因かどうかは謎ですが、夏侯楙と清河公主は比翼連理とはいかなかったようです。
夏侯楙がスキャンダルに
西暦228年。蜀の丞相・諸葛亮が北伐と称して魏へと侵攻を開始します。
時の皇帝・曹叡は討伐を指示、夏侯楙を朝廷に呼び戻し、「尚書」に命じます。夏侯楙は関中にいるときに、たくさんの遊女をかこっていたため、妻の清河公主とケンカしていました。もはや離婚寸前だったのです。
兄弟の夏侯子藏や夏侯子江は、夏侯楙の態度を無礼に感じ、日頃から快く思っていませんでした。そこで皇帝の曹叡をうまく操って、遊び人・夏侯楙の命をとってしまおうと策を巡らせたのです。まず、夏侯子藏たちは、皇帝の元に次々と夏侯楙を糾弾する文書を送ります。
あまりにひどいので曹叡は夏侯楙を処刑してしまおうとも考えたほどです。一人で解決するのは難しいと判断し、長水校尉・段默にアドバイスをもらうことにしました。すると段默は、夏侯楙とその妻の不仲に原因があるのではと疑ったのです。
そこで夏侯楙に対しては大目に見るように願い出ました。理由としては、夏侯楙の父・夏侯惇と清河公主の父親である曹操は魏の礎を築いた人物だったからです。曹叡は軍事や政治、文化の発展に尽力した切れ者ですから、これには裏があるのではと思い始めました。
スキャンダルの真相は?
かねてから夏侯楙と仲が悪かった三男の「夏侯子藏」と四男の「夏侯子江」。権力を笠に着て、遊女とイチャイチャしていたのが気に入らなかったのでしょう。夏侯楙の妻、清河公主と結託して「夏侯楙」を陥れる作戦を思いつきます。
清河公主は旦那の女遊びに愛想をつかしていたので、簡単に誘いこめたはずです。そうして何度も夏侯楙の不正を皇帝に進言し、皇帝自ら夏侯楙を処罰するというマスタープランを描いたのです。段默からアドバイスをもらっていた皇帝は事件の真相究明に乗り出します。
問題は、誰が夏侯楙の妻、清河公主に代わって文書を上申したのかという点。捜査を進めるうちに、夏侯楙と仲たがいしていた兄弟の夏侯子藏と夏侯子江に行き当たりました。事件の黒幕は、清河公主のジェラシーを利用して、夏侯楙を排除しようとした夏侯子藏と夏侯子江の二人だったのです。
疑いの晴れた夏侯楙は、のちに鎮東将軍となります。
他にも夏侯惇の子がいたのか?
長男に夏侯充がいました。「高安郷侯」の位を賜り、父・夏侯淵が亡くなった後、家業を継いでいます。子どもは夏侯廙、孫は夏侯劭です。
三国志ライター上海くじらの独り言
全く事件に関わらない長男の夏侯充。曹丕と仲良くなって、曹操の娘と結婚した夏侯楙。それを妬んだ夏侯子藏と夏侯子江、朝廷内での兄弟の争いを象徴するできごとでした。
戦がなければないで、朝廷内で争いが起こるのです。特に朝廷のような権力の非常に強い場所では、常日頃から謀略が張り巡らされています。それは戦場でやるか、宮廷でやるかの違いにすぎないのです。
参考資料:
「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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