少帝は後漢(25年~220年)第13代皇帝です。本名は劉弁と言います。少帝という皇帝は中国の歴史に多くいますので、この記事では少帝弁と記述します。彼の人生は波乱に満ちており、決して幸福とは言い難いものでした。
さて、今回は名前は有名なのですけど、あまり知られていない少帝弁の生涯を彼の一族と絡めて解説します。
「少帝弁 考察」
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霊帝の子として生まれる
少帝弁は熹平2年(173年)または熹平5年(176年)に生まれました。父は後漢第12代皇帝霊帝、母は何氏、伯父は大将軍の何進です。
母の何氏は身長163センチ。当時の女性にしては高身長で美人でした。何氏は兄と一緒に故郷で精肉店を営んでいましたが、同郷出身の宦官である郭勝の推薦で後宮に入り霊帝に気に入られました。何進もそのおかげで出世しました。
光和元年(178年)何氏に幸運が訪れます。霊帝の皇后である宋皇后が宦官に陥れられて廃されたのです。こうして寵愛を受けていた何氏が2年後に皇后になります。
しかし、何皇后には邪魔者がいました。それは霊帝の寵愛を受けていた王美人です。「美人」というのは名前ではなく、宮中の女性の位です。彼女は霊帝の子供を身ごもっていました。
何皇后は王美人にこっそりと堕胎薬を飲ませますが、薬がインチキだったのか全く高価無しです。こうして無事に王美人は子供を出産しました。劉協(後の第14代皇帝献帝)です。腹を立てた何皇后は王美人を別の薬で毒殺して、劉協を董太后(霊帝の母)に預けます。
何進と宦官の争い
中平6年(189年)に霊帝は病に倒れてこの世を去りました。長男である少帝弁が第13代皇帝となりました。何皇后も何太后になります。
この時期、何進はあることで悩んでいました。自分たち一族を引き立ててくれたのは宦官です。だが出世して世間を見渡すと、ほとんどの人がアンチ宦官ばかりでした。
このまま宦官と一蓮托生で過ごすのは、さすがに世間体が悪い。ところが、妹の何太后や弟の何苗は宦官に恩があるので、べったりしている。
悩んでいる何進のもとに現れたのが袁紹でした。袁紹はアンチ宦官の人物であり、名門と言われている袁家の御曹子でした。袁紹は何進を味方につけて宦官を全てやっつける気でいました。
名門の袁紹がバックにいるのなら、百人力と思った何進ですが行動は何太后に知られることになり、「兄さん、待って」と説得されて躊躇します。袁紹も負けじと各地の群雄を集めて宦官を討伐する計画を何進に提案。こうして董卓・丁原・橋瑁・王匡が洛陽に呼ばれます。
これに驚いたのが何進の弟の何苗でした。彼も急いで宦官との友好関係を保つことを伝えます。おかげで何進は再び計画をストップしようとします。身内から注意されると弱気、第三者から激励を受けると強気・・・・・・現代にもよくいるタイプです。
はっきりとしない態度をとった末に何進は、あっけない最期をとげます。宦官から呼び出しを受けて殺されてしまいました。残った袁紹や董卓が、この混乱に乗じて宮中で宦官を皆殺しを行います。
弘農王への降格処分と毒殺
結局、宮中での混乱の勝利者は袁紹ではありません。少帝弁と弟の陳留王を董卓が保護したので彼が勝利者になってしまいます。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『献帝紀』によると、董卓は少帝弁の言っている内容が理解出来ないので近くにいた陳留王に尋ねると彼はスラスラと答えれました。その時に、董卓は少帝弁の廃位を決心します。
洛陽に帰った董卓は廃位の話を袁紹に相談しますが、袁紹は乗り気になれずに洛陽から出ていきます。おそらく、宦官討伐という目標を果たした袁紹からしてみれば皇帝が誰であろうと気にするレベルではなかったのでしょう。
董卓は袁紹という強力な助っ人を得られなかったのは残念でしたが、仕方なく強行的に少帝弁の廃位を決めました。
彼は皇帝から弘農王への降格処分となり、弟の陳留王が皇帝となりました。
その後も暴虐な行為が多かった董卓に対して、袁紹や曹操などの群雄の怒りが爆発。彼らは洛陽まで進撃しました。驚いた董卓は周囲の反対を押し切って長安への遷都を決意。ところが、ここで邪魔なのが降格処分にした弘農王です。
もし袁紹たちに擁立されたら面倒でした。そこで董卓は部下の李儒に命じて、彼を毒殺しました。享年は15か18歳と考えられます。
三国志ライター 晃の独り言 晃のトラウマ
以上が少帝弁の生涯でした。横山光輝氏『三国志』では少帝弁は10歳程度の少年として描かれています。おそらく、横山氏が少帝というネーミングから連想して描いたと推測しています。
ちなみに、横山『三国志』では少帝弁は母の何太后と一緒に李儒に殺されますが、楼閣から突き落とした後に、斬首するというシーンがあります。
13歳の筆者はそのシーンが強烈でした!
「わかった。もうよい酒がまずくなるわ・・・・・・」と少帝弁の首を見た董卓の気持ちが分かります。
「わかった。もうよいご飯が食えなくなるわ・・・・・・」と筆者は言いたくなりました。
※参考文献
・狩野直禎『「三国志」の世界 孔明と仲達』(清水書院 1984年)
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
・松崎つね子「黄巾の乱の政治的側面:主として宦官との関係からみて」(『東洋史研究』32-4 1974年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。読者の皆さんは少帝弁が好きな人、もっと生きて欲しかったという人はコメントをどんどん入れてください。何太后・何進ファンも大歓迎です!
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