キングダム621話において、龐煖相手に善戦しながら最終的にボロゾーキンになってしまった羌瘣。前評判では成長した羌瘣なら龐煖を倒せるのでは?という下馬評もちらほら見えたものの、やはり信によって龐煖は倒されなければならないという予定調和は根強かったと考えられます。
しかし全部漫画の都合で済ませてしまっては面白くない。本当はもっと深い理由があるのではないか?kawausoはそう考えて、巫舞をする羌瘣の呼吸のように深く深く考えてみましたよ。トーンタントン
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蚩尤も龐煖もベクトルが同じだから
龐煖相手に善戦した羌瘣ですが、羌瘣の出身村である蚩尤も、龐煖も自分の力ではなく神を降ろしてきて戦うという戦闘スタイルは共通しています。ただ、龐煖は常時神を体内に宿らせて一体化しているのに対し、蚩尤は呼吸法によりトランス状態に陥り神を一時的に堕とすという点が違うだけです。
そして、龐煖が武の極みを手に入れる為に、武への執着以外の全てを捨て去ったように、蚩尤の村でも同じ村に住む人間同士で殺し合いをさせ、最後に生き残った人間だけが継承者になれるように掟を定めていました。仲間を殺し身内を殺し、全てを捨て去った末に最強の巫舞の使い手になれるというのは、龐煖と同じベクトルと言えます。
つまり、根源を同じくする戦い方だから、追い詰める事は出来ても最後には体力勝負になり、その点でゴリマッチョである龐煖に華奢で体力が尽きていた羌瘣は目から血を出しても勝てなかったのです。これは裏返すと神堕としという戦法を用いず、捨てるのではなく小さな思いまでも背負っていく信のような異質な戦い方をする人間にこそ勝機があるという伏線ではないでしょうか?
龐煖も羌瘣も自分を犠牲にしている
もうひとつ、羌瘣は非常に自己犠牲が強すぎる性格をしています。飛信隊の仲間を救う為には躊躇いなく自分の身を危険に曝しますし、それがオカシイとも感じていません。英雄的な資質と言えばそうなんですが、死にたがりというか、軽はずみに命を投げ捨ててしまう傾向が強い感じがします。
前にも、どこかで書いた気がしますが、大切な存在を守りたいと思う余り、その為に自分が死んだら哀しむ人間がいるという事実に思い至らないわけです。この自己犠牲精神の強さは強い愛情を持ちながら、それを一方的にして盲目に陥り、全てを台無しにしてしまう危険を孕んでいます。
北方謙三ばりにマッチョイムズ全開で言わせてもらえば、女盛りの今、信の胸に飛び込め!そして愛欲のままに抱かれ女になれ、惚れた男に甘えられる女の喜びを噛み締めろ・・とまあ、こういう結論になります。
一方、羌瘣とは似ても似つかない龐煖ですが、この魔法使いも武の極みという世間一般の人は見向きもしないような価値観のみに縋り、地位も友人も女も家も名声も何もかも捨ててしまいました。サイズはデカイですが、顔を見る限りはそんなブサイクでもなく、むしろ渋くてイイ男なのですから、ワレブ、ワレブ、言って汚い格好で中国全土を強者を探して放浪していなければ、愛人の一人や二人はいたでしょうに可哀想な話です。
龐煖の自己犠牲の末期的なのは、そんな自分が不幸にして不毛である事に全く気付いていない点であり、そんな風に武の極みを目指そうと所詮は人間なので僅か数十年で、龐煖が常々言う、ただの土くれになってしまう事すら悟れない事です。
龐煖は己を武神と誇り神の視点に立って他者を土くれと見下しながら僅かに数十年後には自分の寿命も尽きて、自分が殺した人間と同じ無価値な土くれになる自家撞着に気づいていません。端的に言って、このアホゥガ!なのです。
いや、龐煖は趙の総大将だった事もあるじゃないかですって?あんなものは名目だけであり、龐煖の目には、趙の兵士さえ眼中にはありませんでした。例え、百万の軍勢を率いようと武の極みの為に全てを振り捨てた龐煖は一人と同じです。
この極端な自己犠牲に貫かれた二人の性質も、やはり神を堕とすという特殊な戦法を使う人間である為に凝り固まったのかも知れません。
人間は一人では大した事は出来ない
一方で信は、龐煖や羌瘣とは正反対の人生を歩いてきました。天下の大将軍になるという夢を抱いていた信は、漂が秦王政の身代わりになって死ななければ、政や昌文君と出会う事はありませんでした。
その後、信は下僕の地位を抜け出し、王騎に師事する形になりましたが、王騎が死を以て託した矛や大将軍の心構えが信の心に火をつけ、さらに信を人間として成長させていきます。その後も飛信隊や仲間の死が信を成長させていきますが、信は死んでいった仲間の思いを背負っていく事でどんどんと成長していきます。他者がいなければ信がここまで来る事はなかったのであり、基本的に一人であり続けた孤独な龐煖や、仲間に救いを求める事が出来ない自己完結型の羌瘣とは、大きく違う点なのです。
信は自分が弱い人間である事をよく知っていてその弱さを隠していません。そして、誰もがそうである事も知っているのです。だからこそ仲間が困っている時には手を貸し、自分が辛い時には喜んで仲間の手を借ります。
だからこそ王都咸陽を守る為に、疲れ果てながら蕞に到着した信を出迎えた秦王政の姿に安堵し、ひと時、その肩を借りたのです。同様に黒羊丘編では、何とか敵将、劉冬を討ち取ったものの逃げのびる力さえ失っていた羌瘣を、自らも慶舎を倒した後の疲労の極致で救ったりしていました。
この助けたり、助けられたり、支えたり、支えられたりこそが、人間の偉大さであり弱い人間が万物を支配できた力の源でした。羌瘣や龐煖はなまじ強いだけに、その仲間と力を合わせて戦うという無限の力を引き出す事が出来ないのです。
だからこそ、羌瘣は龐煖に勝てず、信は龐煖を倒す事が出来るという理屈に全てが回収されるのだとkawausoは推測します。
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