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この記事の目次
ラウンド5:加賀一向一揆に両雄奮戦
天正三年七月、織田信長は、一度は支配したモノの再び叛いた百姓の支配する国、加賀一向一揆に対して討伐命令を出します。担当したのは織田家の重鎮の柴田勝家ですが、信長も親征して敦賀に入り、さらに勝家の与力として、光秀と秀吉にも出陣命令が出ます。
金ヶ崎の退き口以来で共闘する二人ですが、八月十五日、折からの暴風雨をものともせず越前一向一揆の円強寺と若林長門守の軍勢を撃破し、逃げる一揆宗徒を二百も斬り捨て杉津城と新城を焼き払いました。
秀吉「オラどけ!キンカン頭、たらたら前を歩くな!ウザいんじゃジジイ」
光秀「このハゲネズミ、ネズミはネズミらしく穴に籠っておれ、生意気なんじゃい!」
その後も、光秀は秀吉と競うように加賀一向一揆を猛攻撃し、全体で二千騎は切り捨てたようです。両者の奮闘もあり加賀一向一揆は、一万人以上の戦死と三万から四万の捕虜を出して崩壊してしまったのです。それもこれもこの戦いに信長が参加しているからでした。
秀吉に至っては、この後も手伝い戦で加賀に来ていますが、「頑張っても勝家の領地が安定するだけだ」とやる気がなく遂には勝家と喧嘩し無断で軍勢を引き上げて、信長に激怒されています。
ラウンド6:光秀丹波攻略失敗、秀吉播磨攻めを命じられる
光秀は、天正三年十月に信長に出仕しない赤井直正の討伐を命じられ丹波攻略に出陣します。ここを上手く陥落させれば、丹波一国を与えられ、光秀の領地は34万石に増加するので、出世競争で頂点に立ちたい光秀には願ってもない事でした。
ところが、丹波黒井城主の赤井直正は、丹波の赤鬼と恐れられた戦上手であり、光秀はまさかの大敗を喫し出直しを余儀なくされます。さあ、秀吉チャンスですが、この時の秀吉、上杉謙信と交戦中の柴田勝家の与力を命じられるものの、作戦を巡って勝家と仲違いし信長に無断で軍を引き挙げてしまい、織田勢は謙信に敗れてしまいます。報告を受けた信長は切腹ものの失態だと激怒します。しかし秀吉には運が味方していました。
当時の織田軍団は反信長包囲網への対処で忙しく、有能な秀吉を斬るわけにはいかなかったのです。幸運にも間もなく、織田方の松永久秀が本願寺勢について謀反、信長は嫡男の信忠を総大将に、明智光秀や羽柴秀吉に従軍を命じます。
ここで秀吉はちゃっかりと手柄を立てたので、勝家との喧嘩は帳消しになり、おまけに手ぶらの秀吉に対し、信長は播磨攻略の命令を出したのです。他に動ける軍団がないからというのが信長の意向でしたが、とんだ棚からぼた餅でした。
一方の光秀は丹波攻略に集中出来ないまま各地の手伝い戦に駆り出され、天正四年5月23日にあまりの忙しさに過労で倒れ京に引き上げ、一時は危篤になる程に病が重くなります。何とか回復出来たものの、看病疲れにより最愛の妻を失い、長期の闘病を余儀なくされます。思いがけない秀吉のラッキーと我が身の不運に歯ぎしりする光秀ですが、ここは耐えて待つしかありません。
ラウンド7:光秀長曾我部氏とのパイプと毛利氏への調略を行う
丹波攻略に取り掛かろうとすると、誰かが叛くという悪循環はあったものの光秀は味方の手助けを借りながら着々と八上城を兵糧攻めにします。一方で光秀は部下の斎藤利三を使い、土佐の長曾我部元親と外交パイプを築いていきました。
天正七年(1579年)六月一日、八上城は陥落し、四年に及んだ丹波攻めは終了します。これにより、光秀は丹波一国を領地に与えられ、総石高三十四万石になります。翌年、天正八年(1580年)、羽柴秀吉は播磨の三木城を攻略、同年4月には、大坂の石山本願寺が織田信長と和睦、ついに畿内の反信長勢力は沈黙します。
羽柴秀吉は光秀を警戒し、弟の羽柴秀長を但馬に派兵し丹波を攻略した光秀が西に出れないように、塞ぐと同時に生野銀山を抑えて資金源を確保しました。この頃、秀吉は毛利と対立していた宇喜多直家を味方につけて反毛利の外交を展開していましたが、光秀は逆に朝山日乗を毛利の外交僧の安国寺恵瓊の元に派遣し、「宇喜多直家は信用できない男だから、織田家と共同で倒し天下泰平を築こう」と働きかけています。
この時点で、織田信長は毛利氏との戦いを望まず、光秀の和平案に大きく傾いていました。実際信長は信長で丹羽長秀、武井夕庵を窓口にして①毛利は宇喜多との戦いに専念する、②信長の娘を吉川元春の息子に娶せる③足利義昭は西の公方とする。このようなプランを提示しています。
光秀のプランが成立すると、秀吉の目論む中国攻めも九州征伐も御破算になります。同時に対毛利強硬派の秀吉は、中国地方攻略担当から外され、中堅大名として終わる事になります。この頃の秀吉は悶えるような焦燥感に駆られていた事でしょう。
ラウンド8:馬揃えを主催するも突然の破滅
丹波一国を得てからの光秀の権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、京都でも明智の一門の権威・権勢が噂になる程でした。※校合雑記
光秀の権威・権勢の背後には信長の絶大な信頼がありました。事実信長は1580年、突然に織田家重鎮、佐久間信盛・信栄父子を追放しますが、その折檻状の中で光秀に触れ「今回の丹後国での明智日向の働きを見たか!あれこそ天下に誇れる働きと言うべきものじゃ、それに比べて貴様ら父子は!」と激しく叱責しています。当家に何十年仕えてこのレベルか?少しは新参の光秀を見習えという感じです。
これは当然、光秀の耳にも入ったでしょう。粉骨砕身して信長に仕えた己の努力が報われたと光秀は感無量だったと思います。さらに天正9年(1581年)2月28日、京都において正親町天皇臨席の上での軍事パレードである大馬揃えが開催され、名だたる織田軍団の部将が参加、光秀はその開催の一切を取り仕切ります。
ところが、この大馬揃えの成功を頂点として光秀の栄光は急速に陰っていきます。
天正九年六月、羽柴秀吉は因幡・伯耆国境まで進出して、光秀の西国進出の芽を摘み、同年十一月からは、信長の中国親征をしきりに吹聴し始めたのです。これは、反宇喜多・親毛利の立場を取っていた織田信長の方針転換でした。信長の変心の理由は不明ですが、足利義昭が講和に同意せず、毛利家中での意思統一が出来なかった可能性があります。
短気な信長は時間がかかる対毛利講和を捨て、秀吉の毛利攻略路線を採用し、光秀に対しては秀吉を加勢するように命じました。
一方で信長は四国平定でも長曾我部氏に自重を促し、土佐統一に待ったを掛け、秀吉が推す三好氏との友好にシフトします。長曾我部氏は約束が違うと光秀に泣きつき、ここでも光秀のプランは頓挫します。ここに、光秀の計画は崩壊し、中国・九州攻めの先鋒は羽柴秀吉で決定したのです。絶頂期から突然に暗闇に突き落とされるような敗北でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
本能寺の変の一年前までは、秀吉に優位していた光秀は突然の信長の変心により奈落の底に突き落とされてしまいました。一体何が信長の態度を変えたのか詳しい事は分かりません。光秀の妹であり信長の側室であった御妻木が病死し、信長に直接働きかけるチャンネルが消滅したという理由も大きいようです。そこに秀吉の陰に陽にの働きかけがあったのは間違いないでしょう。
四国から九州へと伸びていく道を断たれ秀吉に敗北した光秀に残っていたのは信長を討ち、十四年続いた秀吉との出世ゲームを強引にリセットし起死回生を図る事だけでした。
参考文献:明智光秀残虐と謀略