応仁の乱以後、日本では各地で兵乱が起き頻繁に戦争が繰り返される事になりました。
それはつまり、大勢の人間が兵士として動員される事を意味します。それに従い、日本ではある衣類が爆発的に輸入されるようになります。室町期から戦国にかけて日本に定着した衣類、それはなんと木綿でした。しかも木綿は戦国時代の日本人の生活も合戦も変えた戦国最強素材だったのです。
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木綿は庶民にとって夢の衣類だった
文献上に木綿の文字が出現するのは、鎌倉時代以降で、もっとも古い事例には1204年の高野山金剛峰寺関係の記録があり、寺院の僧が使用する足袋に木綿が混じり始めます。ただし、この木綿が、草木綿と共通するかは未詳で、史料として確実に木綿が登場するのは、14世紀後半の南北朝・室町時代であるようです。日本には、それより古く延暦十八年(799年)に南蛮船が三河に漂着して、崑崙人(インド人)が綿の種を伝えた記録が「類聚国史」に見られますが定着しなかったようです。
その為、室町期でも木綿は全て輸入品であり、1406年に室町幕府が朝鮮国王に派遣した使節たちに与えられた贈物にも青木綿や綿子が見えます。木綿はそれまで存在した絹や麻よりも暖かく、破れにくい事から木綿に対する関心と需要が次第に高まっていきました。
木綿は庶民が身に着けていた麻に比べて非常に肌触りがよく、同時に摩擦の快さと柔らかさがありました。当時の衣類には絹もありましたが、それは上流階級の衣類であり、庶民が気軽に着れるようなものではありませんでした。
木綿の長所はもう一つあり、麻に比べて染色が簡単でどんな色にもよく染まります。
それまで染織物は絹の特権であったものが、木綿が出てきた事で、色とりどりの衣類が生産されるようになっていきます。衣類がファッションアイテムになったのです。それまで、機能性しか求められていなかった衣類に色彩豊かな木綿が登場したのですから、庶民の人気を集めたのは当然でした。
戦国時代の合戦の必需品になる木綿
1467年に応仁の乱が勃発すると、木綿は兵士のユニフォームとして重宝される事になりました。保温性が高く、動きに柔軟に対応でき破れにくい木綿は戦闘服として最適でした。室町時代の合戦は昼夜の別もなく、兵士は野外で就寝する事も珍しくありません。
特に冬の場合、野外で野宿する兵卒は寒くて堪りませんが、木綿なら体温で温まって眠る事が出来ました。その為、戦国大名は先を争って朝鮮木綿を求めました。後述しますが、結城氏や後北条氏のような戦国大名が逸早く、戦闘服としての木綿に着眼したようです。
当時の木綿は輸入品であり、決して安くはないのですが、それでも大量に購入したのは、それだけ木綿の衣類により兵士の戦闘力が上った為でしょう。
木綿の利点は兵士の軍服だけではありません。戦国時代を象徴する火縄銃ですが、木綿は火縄として点火しやすく、簡単に消えない利点がありました。火縄部分を木綿で造られた火縄銃は木綿火縄と呼ばれ、戦場には欠かせないものになったのです。
合戦における木綿の需要はさらにありました、北条氏邦が定めた「永代法度」には防具の類も木綿がよいという記述があり、また、戦場において欠かせないアイテムである陣幕や旗指物も、発色が鮮やかで様々に染められる木綿が使用されていきます。
もうひとつ、戦国時代には船も軍船・輸送船として活用されましたが、合戦が大きくなるに従い船も巨大化します。それまで船の帆は、藁や筵が帆の材料でしたが、より風の力を得る為に柔軟で強靭な木綿帆が使われたのです。
このように戦国時代の木綿は、合戦において欠かせない軍需物資になり、民間の需要とあいまって、空前の木綿ブームが発生しました。
輸入が難しくなり、木綿は国産化される
庶民にとってのファッションアイテムとして、そして急速に拡大・大型化を繰り返す合戦においての軍需物資として木綿の需要は高まる一方であり、朝鮮からの木綿の輸入は増加の一途を辿ります。
それに対し、国内需要でも木綿が欠乏してきた李氏朝鮮は、木綿の価格を引き上げたり、輸入制限を掛けるようになります。
輸入制限に困った日本は、朝鮮ばかりでなく、中国から直接、木綿を輸入するようになり、16世紀後半には輸入木綿では、中国木綿が朝鮮木綿を上回るようになります。しかし、輸入している限りは、木綿の価格は高いままですし、いつ輸入制限が掛かるか分からず不安定です。そこで木綿の国産化が試みられるようになりました。
木綿の国産化として一番古いのは、1494年に越後の上杉房定が毛利重広に宛てた安堵状と、文亀二年4月19日の年月日が記された武蔵国越生郷上野村聖天宮社の棟札で、それぞれにみわた(実綿)「木綿一反」の文字が出てくるので15世紀末から、16世紀中頃が日本においての綿生産が始まった時期と考えられています。
産地としては、三河が有名であり戦国大名では結城氏や後北条氏のような地域の大名が兵衣として木綿を採用しているので、三河で最初に木綿栽培が始まったっぽいですが、戦国期は海運を通じて、木綿の種も広範囲に伝播したので、時期には大きな違いはないようです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
木綿が短期間で国産化した理由には、各地の戦国大名による商業や工業の奨励や育成があります。中世期には、京都や鎌倉に限定されていた物資の輸送経路が、博多、堺、越後、伊勢など港湾を持つ地域で成長していき、物流が全国区になったのです。
これにより、木綿の栽培技術も、瞬く間に全国に拡大していき、麻に比較しても織りやすいなどの特徴から普及していき、中には木綿織物が特産品になる地域も出ました。木綿は日本人の風俗も戦争の仕方も劇的に変えたのです。
参考文献:最新研究が教えてくれるあなたの知らない戦国史
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