広告

董卓死後に権力を握った李傕とはどんなやつ?


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

初平3年(192年)に董卓(とうたく)は部下である呂布(りょふ)王允(おういん)の手により殺されました。

 

李カク、郭汜、王允

 

董卓の部下である李傕(りかく)は董卓の死を聞くと、すぐに反撃に出て呂布と王允を倒して、董卓に代わって権力を握ることになります。李傕とはどんな人物なのでしょうか?今回は正史『三国志』をもとに李傕について解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
「董卓 権力」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:呂布が董卓を暗殺した理由は長安遷都が原因だった!?

関連記事:董卓の武勇はすごかった!短命とはいえトップに上り詰めた男の手腕を再考

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



董卓暗殺と長安への突入

李傕・郭汜祭り

 

董卓暗殺当時、李傕は同僚の郭汜(かくし)張済(ちょうさい
)
と一緒に董卓の娘婿の牛輔(ぎゅうほ
)
の命令を受けて陳留・潁川で略奪の最中でした。

 

牛輔

 

そんな時に董卓暗殺のニュースが入って、呂布が差し向けた李粛(りしゅく
)
が牛輔に攻撃を仕掛けてきます。

 

牛輔

 

幸いにも李粛を打ち破ることには成功しますが、牛輔軍は董卓死亡のニュースで大混乱!

 

牛輔

 

結局、牛輔は側近の攴胡赤児(ほくこせきじ)に殺されてしまいます。

 

郭汜

 

最初は涼州まで戻ろうと思った李傕と郭汜でしたが、部下の賈詡が「今のあなた達だったら、小役人にも殺されますよ」と言われたので思いとどまりました。

 

賈詡

 

賈詡の提案で裏道を通って長安に攻め込んだ李傕は呂布を追い出して、王允を処刑します。また、亡くなった董卓を手厚く葬ってあげました。

 

李傕の政治介入

李傕

 

これだけだったら、普通の復讐劇で終わるのですけど終わらないのが史実。李傕は政治介入もしてきました。

 

歴史書をつくる裴松之

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし
)
が持ってきた『献帝起』という史料によると、当時の長安の経済状況が良くないことから献帝(けんてい)は絹を用意して、馬を売って金を準備しました。ところが李傕は「私の屋敷にはたくわえが少ししか無いのですよ」と言って、せっかく献帝が用意した絹と金を強奪!

 

賈詡

 

賈詡が「やめてください!」と反論するも李傕は知らんぷり。これは明らかな政治介入です。

 

董卓残党の内ゲバと献帝の脱出

樊稠

さて、最初は協力していた董卓の残党勢力でしたが、親分の董卓がいなかったらやはり統制がききません。

 

樊稠

 

やっぱり起こすのは内ゲバでした。最初に殺されたのは樊稠(はんちゅう
)
です。

 

李カク 樊稠、李傕

 

この人は董卓軍でも人望が厚かったので、李傕や郭汜にとっては邪魔な存在でした。そこで興平2年(195年)に樊稠を殺害して彼の軍を奪ってしまいました。しかし人間の欲は止まらないものです。今度は李傕と郭汜がお互いにバトルを始めました。おかげで長安は戦場となり、廃墟となってしまいました。

 

漢李カク・郭祭り78 献帝

 

嫌気がさした献帝はとうとう、長安から脱出。かつての首都の洛陽に戻ることにします。一方、李傕と郭汜はかつての同僚の張済が間に入ってくれたので一度休戦協定を結んで、献帝の奪取にかかります。

 

張済、献帝

 

李傕・郭汜・張済は献帝を追撃して一度は壊滅的打撃を与えますが、李傕の元・部下である楊奉と和睦を結んで休戦。献帝はどうにか、洛陽までたどり着きました。

 

曹操の献帝保護と李傕の最期

献帝を保護する曹操

 

だが、建安元年(196年)に献帝は曹操に保護されて、首都も洛陽から許昌に移りました。献帝を追い掛け回す李傕たちは、これで完全に逆賊です。求心力を失った李傕たちに、かつての力はありません。建安2年(197年)に朝廷からの命令を受けた裴茂により李傕は攻撃を受けて、翌建安3年(198年)に処刑されました。享年不明。斬られた首はさらし首にされました。

 

三国志ライター 晃の独り言 ありがたき応援・批判コメント

三国志ライター 晃

 

YouTubeに筆者の記事が動画としてあがっていることに、最近気付きました。内容に満足されている方もいれば、不満であり批判的なコメントを残されている方もいました。

 

はじめての三国志コメント機能特集バナー115-15_bnr5

 

応援のコメントが嬉しいのは当たり前ですが、批判的な内容の中には自分が気付かなかった視点もあるので非常に勉強になります。やはりコメントは嬉しい限りです。これからもコメントを遠慮なく送ってください!もちろん記事の方からも受け付けていますので、どんどん送ってください!

 

※参考文献

・上條駿「献帝の礼制と皇帝権―董卓誅滅から許昌遷都までー」(『大正大学大学院研究論集』43 2019年)

 

はじめての三国志コメント機能特集バナー115-14_bnr4

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。李傕が好きという人はコメントをお願いします。

 

関連記事:董卓が行った長安遷都とはどんなこと?長安遷都の意図は?

関連記事:袁紹と何進はなぜ董卓を都へ招集したの?後漢王朝の命運を絶った大愚挙

 

李傕・郭汜祭り

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-三国志の雑学
-,