2020年のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公の「麒麟がくる」です。これまで謀反人として否定的な見解と共に敵役として扱われる事が多かった光秀が主人公としてどう描かれるのか楽しみです。ところで、明智光秀の前半生は謎に包まれていましたが近年研究が進み、信長に仕える前、十年以上無免許医師だった可能性があるそうです。
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この記事の目次
針薬方という医学書を保有していた光秀
明智光秀が無免許医師、戦国のブラックジャックだったと言ってもにわかには信じられませんが、彼に医学知識の片鱗があった事は、米田文書という書状から明らかになっています。
中略
ニキリクタシ(腹下し)留めたい時
一ハヅ( 巴豆)一、イワウ(硫黄) 一、カンキヤウ(乾薑:生姜を干したモノ)、一カンセウ(甘草)水にて手を冷やしカンセウを煎じて手を洗うナリ
この内容は、沼田清長という人が高嶋田中城籠城中に明智光秀と一緒で、その時に光秀から伝授された医術の内容を書き留めた一部です。光秀は当時の医学書である針薬方という書物を所持していて、その事から医学の知識があった事が分かります。
一流のドクターと付き合いがあった光秀
光秀に医学の心得があったという証拠には別にもあります。明智光秀は京都代官時代、長らく自宅を構えておらず、施薬院全宗という医者の元に泊まっていました。この人物、施薬院という名字の通りれきとした医者であり、後に豊臣秀吉に目をかけられ引き立てを受けたような名医です。
光秀が施薬院全宗の家に泊まっていた事実は昔から知られていましたが、どんな繋がりがあったのかは不明なままでした。しかし、米田文書の発見により光秀が医学書の針薬方を所持する程、医学に興味があった事が分かり、つまり医学に関心があるもの同士での繋がりだった事が判明したのです。
そればかりでなく、光秀は興福寺と東大寺が争った時、裁判官としての役割を演じていますが、その裁判が終わった後に、光秀はソハクという人物に、上手く案件を裁いた事を自慢し茶を飲んで帰った事が、興福寺の裁判記録、戒和上昔今禄に出てきますが、このソハクという人物は宗伯と言い典薬方の典薬入道丹波頼景の事です。典薬方は律令国家が成立して以来の薬と史料に詳しい人で、彼もまた医者でした。
このようなドクターと冗談を言う交流があり、当人も針薬方という医学書を所持していたのですから、光秀には一定の医学知識があったと言えるでしょう。
どうして光秀は医学を学んだの?
明智光秀には医学の心得があったのですが、疑問はどうして医学を学んだかです。光秀の出自は美濃土岐氏の庶流と考えられていますが、それは武門の家柄であり、医学とは関係がありません。この謎を解くには戦国時代という時代背景を考えてみないといけません。室町幕府の権威が衰え、各地で守護大名、或いは守護代、国人のような勢力が頻繁に合戦を繰り返した戦国時代は、医者の需要が非常に高まった時代でした。
しかし、朝廷や幕府権力の動揺により従来の官医は停滞し、同時に新しい官医の養成も困難になり、そこに民間医師の需要が生まれますが、それは善い事ばかりではなく、とても医学とは呼べないインチキ医師の蔓延を招きます。
その為に、インチキ医師を追放すべく、正確な知識を持つ医者の養成が不可欠でしたが、新しい医師の養成に医学書が絶対的に不足していたのです。大永八年(1528年)この状態を打破すべく堺の豪商である阿佐野井宗瑞が私財をはたいて当時の明国より、医書大全という本格的な医学書を輸入し日本語版を作成しました。
阿佐野井宗瑞のような人物の尽力で、民間医にも正確な医学知識が伝わるようになりますが、民間で文字が読めるのは僧侶や武士階級に限られました。光秀もそんな武士階級であり、どこからか針薬方を手に入れ医学の心得を得たと考えられるのです。
越前長崎称念寺で浪人医者を十年勤めた光秀
明智光秀が歴史の表舞台に姿を現すのは、永禄十一年(1568年)九月、足利義昭が織田信長に奉じられて京に入った時の事です。しかし、それ以前の光秀の動向は謎に包まれていました。しかし、近年、遊行三十一祖京畿御修行記という史料に、足利義昭入京以前の明智光秀の消息を伝える一文が記されていた事が分かりました。それは、天正八年(1580年)時宗の三十一代遊行上人の同念が梵阿というお付きの僧侶を近江坂本の明智光秀の元に挨拶に出した時の逸話に出てきます。この梵阿という僧侶は、昔の光秀について、このように書いているのです。
今は惟任と名乗っているが、彼は元々明智十兵衛尉と言い、美濃土岐一族の牢人だった。
その後、越前の朝倉義景を頼んで、長崎称念寺に十年いる間に梵阿と知り合っていたので坂本では長話になった。
梵阿は昔、越前長崎称念寺に出入りしていて、その門前に住んでいた光秀と顔見知りでした。それが十数年を経て今や坂本城主となった惟任光秀と偶然に再会し、お互いに久しぶりだなーという事で思い出話に花を咲かせて長居したという話でした。
朝倉義景を頼ったとはいえ、称念寺は朝倉氏の本拠地の一乗谷から遠く離れていて、決して優遇されていたわけではなく、光秀は生活費の足しとして医学の知識を活かして、村医者として活躍していた。このように推測できるのです。事実、当時の農村の医師は牢人上りが多い事が、横田冬彦氏の著作「医学的な知を巡って」により明らかにされているそうです。
明智光秀の医術の腕前は?
こうして、認可を受けていない民間医となった戦国のブラックジャック明智光秀ですが医術の腕前はどの程度だったのでしょうか?それについては、部下に宛てて、このような書状が確認されています。
疵に苦しんでおられるとの事、京から申してきました。心配です。
もうじき冬ですからしっかり養生してください。今度の丹波攻めにおいて色々と取り計らっていただいたら養生が疎かになります。ちゃんとした医者に診てもらい具合がよくなったら、私が丹波在陣の時にお会いしましょう。
天正三年九月十六日 与力 小畠左馬進への手紙
無理に動いたりせずに、傷を治すのに専念し、良い医者に診てもらいなさいというありきたりな助言を見ると、光秀には専門的な医学知識は無さそうです。実際に彼が保持していた針薬方という医学書は、今で言う家庭の医学程度の初歩の医学書だそうです。ただ、この小畑左馬進は、1575年当時は、まだ少年であり光秀はその事もあり、特に疵の容態を気にかけているとも取れます。医学の心得がある光秀は、そんな傷は唾つけりゃ治るというようなガッハッハ不死身戦国親父ではなく、傷を甘く見てはいけないと親身になって言っているともとれますね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
16世紀は、日本医学の分水嶺になる時期だったようです。それは、それまで宗教的な思考や権威と不即不離だった医学が民間に移る事で、医学の学習が再構築されていき合理的な思考が導入されていく時期でもありました。
やがて、鉄砲伝来やフランシスコ・ザビエルの日本上陸もあり、キリスト教と共に西洋医学も日本にもたらされ東洋医学と混ざり発展していきます。光秀はその新しい医学を学ぶなかで合理的な精神と科学への興味を育み、鉄砲のような新兵器や織田信長の核心的な天下獲りにも理解を示したのかも知れませんね。
参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか
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