2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公は本能寺の変で有名な明智光秀です。
日本史の教科書に必ず登場し、また、光秀が主君信長を討った動機について、何十という説が登場してきますが、逆に、本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れるまでの光秀が何をしていたかはあまり知られていません。そこで、今回は本能寺の変後の光秀の動向について簡単に解説します。
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この記事の目次
①落人探索の後安土城を目指す
本能寺が炎上し、織田信忠を二条御所に討ち取ると、明智光秀は、すぐに兵卒を各地に派遣して町屋に踏み込み落人狩りを開始します。これは、万が一信長が落ち延びていないかどうかを探索する目的でしたが、完全武装した鎧武者が、突然に室内に入って来たので京都は騒然としたそうです。落人探索が終ると、光秀は早急に軍勢を纏め、大津通を下向して安土城を目指します。
②瀬田の山岡兄弟に協力を求め拒否される
光秀は次に、大津経由で瀬田に到着し、山岡美作、対馬兄弟に明智に協力するように要請します。ところが、予想に反して山岡兄弟は協力を拒否し、瀬田の唐橋と山岡館を自焼して、山の中に引きこもります。そこで、光秀は橋の再架橋を開始しつつ、一旦北上して坂本城に入ります。同時に光秀は別動隊を宇治に送り京都と奈良街道を遮断しました。
③大混乱する安土城
安土城に信長・信忠討ち死にの報が届いたのは、六月二日の午前十時だったようです。当初、安土の人々は突然の信長の死を冷静に受け止められず、大変だ大変だと騒ぎまわるだけでした。しかし、本能寺から逃れて来た御下男衆からの情報で、信長の死が間違いないと分ると、家族を引き連れて美濃や尾張に避難を開始します。
なかには、安土の自宅に火を掛ける人までいて、城下は大混乱したそうです。その中で安土城の二丸御番衆の蒲生賢秀は、信長の上臈衆と子女を居城の日野へ避難させますが、この時上臈衆は、退去にあたり金銀太刀の宝物を取り出した上で安土城に火を掛ける事を主張します。しかし、賢秀は、天下に類例がない名城である安土城を焼くのは、神仏の加護を失う事であり、財宝を取り出すのは、天下の侮りを受けるとして要請を一蹴したそうです。
④光秀安土城入城、財宝を部下に分け与え近江を制圧
六月四日、光秀はようやく瀬田の唐橋を修復して、安土城に入城します。蒲生父子は光秀に反抗しなかったので、安土城には無血で入城できたようです。かくして安土城の財宝を手に入れた光秀は部下に大盤振る舞いして士気を高めようと腐心しています。一方で光秀の軍勢はさらに進み、北近江の丹羽長秀がいる佐和山城を陥落させます。さらに北上して羽柴秀吉の長浜城には、斎藤利三が入城しました。光秀はただ城を陥落させただけではなく、若狭守護家の武田元明や、京極高次、長浜の有力土豪である阿閉貞大も光秀に味方しています。
六月五日までは瀬田の山岡兄弟の抵抗はあったものの、光秀の侵攻は概ね成功し、六月六日には、誠仁親王の命を受けて吉田兼和が勅使として派遣されました。越前の柴田勝家も、光秀によって近江は制圧されたと認識している事が書状から判明しており、ここまでクーデターは順調に進んでいたようです。
⑤グダグダな信長の息子達
光秀は、早急に近江、大和、丹後のような地域を固める必要があり、織田信孝や織田信雄のような信長の息子達と積極的に交戦しませんでした。もっとも、この両名の軍勢は光秀と戦えるのような状況ではありませんでした。第一に、四国に遠征する予定だった織田信孝と丹羽長秀の軍勢は、本能寺の変の勃発により、多くの将兵が四散し僅か80騎しか兵力が残らず単独で光秀と戦う力がなく、伊勢、伊賀を束ねていた織田信雄は光秀を討つべく、土山まで進軍するものの、背後の伊賀で大規模な蜂起が起きて立ち往生し、蒲生父子の軍勢と連携を取る為に右往左往する有様でした。
⑥細川父子、筒井順慶、高山右近が光秀を拒絶
六月九日、光秀は上洛、公家衆の出迎えを受け、御所に銀五百枚、五山に百枚、大徳寺にも百枚の銀を贈り、立場の正当化を図っています。しかし、ここで光秀に誤算が発生します。縁組し逸早く光秀に味方してくれると考えていた細川藤孝、忠興父子が信長に義理立てして髷を切り、哀悼の意を表し光秀に協力する事を拒否したのです。光秀は書状で、信長に哀悼の意を表した細川父子に不満をぶつけますが、やがて、その気持ちも理解できると態度を軟化させ、さらに藤孝に若狭か摂津のいずれかの国を与えるとアメをちらつかせて誘いを掛けます。
ところがすでに、六月八日の段階で細川父子と摂津高槻城主の高山右近は羽柴秀吉と内応していました。さらに、一度は光秀に呼応する様子を見せた大和の筒井順慶も再び日和見に移行していまいます。
⑦京都防衛に固執秀吉を少数で迎撃
六月九日に上洛した光秀は、羽柴秀吉が京都付近まで迫っている事を察知します。ここで光秀は山崎、洞ヶ峠、八幡に軍勢を派遣し、十一日には、淀川船運の要港である淀城を修築しました。京都と摂津は西国街道、河内国は東高野街道で結ばれており、山崎は西国街道、八幡と洞ヶ峠は、東高野街道の要衝であり、光秀は秀吉の軍勢が分散して京都盆地に入ると予測していました。これに対し、重臣斎藤利三は、羽柴秀吉との戦力差を問題にし、光秀に近江坂本城への籠城を進めたそうですが、光秀には自分が京都の公家衆を抑えているという自負があり、それをみすみす秀吉に渡す事になるのを恐れたようです。
しかし、羽柴秀吉は、光秀の予想に反し、軍を一本化して大山崎、すなわち西国街道を突き進んできます。軍勢は池田恒興、高山右近、織田信孝、丹羽長秀、等々で総勢4万人。対する光秀は一万五千、当てが外れた光秀は分散した兵力を纏めるのに時間を要し、慌ただしく六月十二日の山崎の戦いの前哨戦を迎える事になるのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
明智光秀は、序盤から中盤にかけて、首尾よく信長と信忠を討ち、敵対した瀬田の山岡兄弟を討ち、焼き落とされた瀬田の唐橋を復旧させて安土城を無血で開城させ、さらに近江の敵対勢力である、丹羽長秀の佐和山城、羽柴秀吉の長浜城を陥落させて、守護職の武田氏、土豪の阿閉氏を味方につけ、京都も制圧するなど、かなり上手くやっています。
ところが、必ず味方につくと確信していた細川父子が信長に義理立てし、筒井順慶は日和見するなど、自身の配下の与力大名を味方につける事に失敗しました。そして最大のミスは京都防衛に固執して少ない味方を分散し、四万の秀吉軍を慌ただしく1万五千で迎え撃った事ですね。斎藤利三の提案通り、近江坂本城に籠城したら、どうなっていた事でしょうか?
参考文献:歴史REAL 明智光秀 光秀とは何者なのか?ここまでわかった「天下の謀反人の実像」