筆者は高校・大学入試が終わると家族でお祝いした記憶があります。寿司、焼肉、ステーキ、焼き鳥、ピザ・・・・・・思い返せば筆者のお祝いって大半が食べ物ですね。それで満足するなんて割と単純な頭脳だったのでしょう。
さて、今回は科挙に合格した受験生のお祝い行事と科挙の同窓名簿「同年小録」について解説します。
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科挙の責任者への挨拶
唐(618年~907年)の科挙は1月に実施して、2月に合格発表です。それが終わると儀礼ともいえるお祝い行事が始まります。それが知貢挙の屋敷を訪れることです。「知貢挙」というのは科挙の総監督ともいえる存在でした。知貢挙に任命されるのは、ほとんど宰相です。受験生が知貢挙に挨拶に行く理由は「合格させていただきありがとうございました」とお礼を述べるためです。
知貢挙も「俺のおかげだぞ」と受験生に恩を売ります。つまり、科挙の総監督と受験生の間で自然に親分子分の関係が構築されてしまっているのです。ただし、この儀礼は受験生と私的な関係が出来ることから北宋(960年~1127年)になると禁止されました。
打ち上げパーティー
科挙合格後は挨拶などの堅苦しい行事が何日か続きます。それが全て終わるとようやく打ち上げパーティーに入ります。「みんな、お疲れ様!」とその日は無礼講です。みんな今までの試験勉強の苦労を思いっきり吹き飛ばします。
ちなみに盛り上がりすぎて池に落っこちて死人もでたようですけど、みなさん、お酒はほどほどに・・・・・・しかし油断は禁物。この宴会では上級役人の娘が自分のムコ探しのために遠くからのぞいているのです。
唐の第6第皇帝玄宗に仕えた李林甫という宰相は自分の娘を連れてきて、ムコ候補を選ばせていました。李林甫という宰相は普段からニコニコした恵比寿様なのですが、腹黒い性格であり敵対勢力に対しては容赦なかったと言われています。もちろん受験生に断る権限はありません!
同期の桜は大切に?
科挙で最も大切に扱われたのは「同期」です。同期は私的にも政治的にも重要な関係でした。もちろん自分の同期を全て覚える人はいません。筆者だって故郷のクラスメイト全員の顔と名前を今では、ほとんど忘れています。
科挙では合格した受験生にある冊子が配られていました。それは「同年小録」と呼ばれるものです。現代で例えるのなら卒業アルバム。その年の科挙に合格した人物の名前だけではなく、家族構成などの個人情報が記されていたのです。科挙の繋がりは非常に大事であり政治的関係にまで発展していました。もしある人物が宰相となった時に自分と同年だった人物をグループに派閥に引き込むために使っていたようです。
また、「私とあなたは科挙の合格が同年です。しかし最近、金銭で苦しんでいます。助けてください」と科挙の繋がりを利用した詐欺もあったので、それを調べるために使っていました。こんな話が残っています。
北宋初期に寇準という宰相がいました。彼は客の来訪があった場合、必ず同年小録を提出させて自分と同期の合格者か確認していました。もし同期であり、相手が年長者だった時は序列に関係無く上座に案内していたようです。すでに名前も顔も忘れた人物を思い出すのに同年小録が有効活用されていたのが分かります。
また、科挙では若くてトップクラスの成績で合格しても、同期に年長者がいた場合はその人に対して敬意を表さなければいけなかったのです。寇準は19歳の若さで科挙に合格した秀才でしたが、年長者を敬うことは忘れていなかったのでしょう。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が3回に渡る科挙特集でした。長きにわたる科挙特集は1度ここで幕をおろします。科挙はこの程度では語ったとはいえません。1960年~1970年代の科挙研究は試験概要をピックアップした内容が多かったのですけど、1980年代から日本の中国史学会では人間の人的交流・地域社会についての研究が進められていき、科挙研究もそれをもとに一段階アップします。
科挙で繋がった人々が一緒の政治路線を歩むのか、それとも別の道を歩むのか研究は様々です。ところで、官僚の彼らはどのような道を歩んでいくのでしょうか?それについては今後の研究を期待します。
※参考文献
・村上哲見『科挙の話 試験制度と文人官僚』(初出1980年 後に講談社学術文庫 2000年)
・山口智哉「宋代『同年小録』考-『書かれたもの』による共同意識の形成―」(『中国 社会と文化』17 2002年)
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。科挙合格後の宴会に参加したいという人は、ぜひコメントを送ってください。
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