室町時代の中頃までに、たたら製鉄に大きな技術革新がありました。
それまで、青空の下、山の中腹の風通しのよい場所に砂鉄を積み上げて砂鉄の五十倍という薪を三日三晩燃やし鉄滓を造っていたたたら製鉄が、山小屋を設ける事で全天候型になったのです。これにより、途中で雨が降ったらオシマイという不安定で鉄山主の勘に頼った鉄の生産力が強化され資源の無駄が減少しました。さらに、元禄時代には、天秤鞴が開発され送風力が強化され出鉄量が30%増加するなど、たたら製鉄は、なんとか必要な鉄需要に応えていきます。
しかし、嘉永六年(1853年)黒船来航が日本の製鉄業に衝撃を与えます。黒船を撃破するような大砲を鋳造するには、たたら製鉄では強度が足りず大砲は次々に暴発して、死者が続出します。どうしても海外の製鉄技術に学ぶ必要が出てきたのです。
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この記事の目次
暴発する危険なたたら大砲
すでに19世紀の初頭には、日本の沿岸に西洋列強の軍艦や商船が出没していました。それに対し、二百年の太平に慣れた幕府は無策であり、時には撫恤令を出して、薪水と食料を与えて異国船を穏便に追い返したり、アメリカのモリソン号に対するように大砲をぶっ放す異国船打ち払い令で強硬策に出たり、対応が定まりませんでした。
そんな右往左往の中で、嘉永六年にはアメリカ東インド艦隊のペリーが翌年にはロシアのプチャーチンが相次いで来航し、幕府は腰の定まらないままに、なし崩し的に不平等な通商条約を締結。金銀の不公平な交換レートで、大量の金が国外に流出して、物価は暴騰、庶民の暮らしは苦しくなり同時に攘夷思想の台頭により幕府の弱腰を罵り、異人を排斥する事で日本を防衛しようとする尊皇の志士が雨後の筍のように出現します。
それについては今回は触れませんが、幕府は場当たり的に江戸初期に禁じた大船建造を許したり、沿岸警備の為に盛んに諸藩に鋳造大砲を造らせました。急に増えた大砲需要に諸藩は鉄を賄えずに、寺の梵鐘を鋳潰して時代遅れの小型砲を沿岸に並べますが、砂鉄を使用した精錬では鉄の強度が均質化せず、実際に発射すると次々暴発して死者が続出しました。やむなく諸藩は鉄の大砲を諦め、強度の均質化が容易な青銅製大砲へと先祖返りします。幕末の鉄大砲鋳造は戦う以前の問題だったのです。
かくして、江戸時代のエンジニアたちは、西洋式の鉄鉱石からの精錬を学ぶ必要に否応なく迫られ、西洋式の反射炉の建設に手探り状態で挑んでいきました。
反射炉建設までの悪戦苦闘
江戸時代日本で、最初に反射炉の建設に挑んだのは、九州の佐賀藩でした。嘉永三年(1850年)には、本島藤太夫を長として、田中虎太郎、杉谷雍介を副官として大銃製造方を組織し佐賀城の西北の築地という場所で、オランダのヒュゲーニンが記した「ゲシキュットギーテレイ」という反射炉の日本語翻訳本を参考に建造に着手します。
反射炉とは、熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴で、燃焼室で発生した熱線と燃焼ガスを天井や壁で反射して、もう一方の炉床に熱を集中させる事で、炉床で鉄の精錬を行う仕組みです。たたら製鉄とは比較にならない高温を実現でき、鉄から酸素や不純物を除いて頑丈な鋼鉄を製錬できました。
手探りの反射炉建設は悪戦苦闘の連続でしたが、技術者の闘志と藩主鍋島閑叟の援助で嘉永五年(1852年)には、鉄製三十六ポンドの鋳造砲の製造に成功、翌年からは幕府の命令で、以後二十年、大砲を造り続けその数は三百門に上り、その間にも技術革新が続き、文久三年(1863年)には、最新式のアームストロング砲まで鋳造できたそうです。
同じく幕末の薩摩藩でも、島津斉彬が主導して安政六年には反射炉を完成させ、さらには原料の銑鉄を手に入れる為に高竈と呼ばれる西洋式の溶鉱炉まで建造し、領内の頴娃や志布志の砂鉄や吉田郡の岩鉄を原料に製鉄を開始しています。元々薩摩藩は、琉球を介して海外への窓口があり、製鉄でも新技術が入手しやすい環境にありました。それ以外にも、長州藩や水戸藩など反射炉の建造に取り組んだ藩は幾つか存在しています。
かくして、良質な鋳造大砲の開発に成功した佐賀藩や薩摩藩ですが僅か大砲三百門では、日本全体を守るには全く足りませんでした。幕府は全国的に佐賀藩や薩摩藩のような反射炉を大量に建造しないといけなかったのです。
江川英龍と韮山反射炉
外様の藩ばかりではなく、幕府の直轄地でも反射炉の建造が急ピッチで進められます。この難事業に当たったのが伊豆韮山代官、江川太郎左衛門こと江川英龍でした。英龍は日本の国防力の低さに危機意識を持ち、幕府によって弾圧されていた蘭学者の助けを借りつつ、佐賀藩同様にゲシキュットギーテレイを参考に自宅内に小型反射炉を造り実験を繰り返してデータを積み重ねます。
当時、反射炉を建造する上で、大きな問題は、1500℃以上の高熱に耐えられる設備をどう建設するかでした。たたら製鉄では、粘土を使用して炉を造り、銑鉄が完成すると毎回炉を壊して取り出していましたが、このやり方では、1,500℃の温度は出ず、強度が高い鉄は出来ません。
そこで、考えられたのが耐火煉瓦によって炉を造るという事でしたが、もちろん当時の日本に煉瓦など存在しません。そこで、英龍達は、良質な煉瓦を造れる土探しから始めないといけませんでした。スゴイ無理ゲーです・・アパッチ野球軍という漫画が野球以前に球場を造る事から始めているのに匹敵します。
かくして各地を手配して探し回った結果、天城山麓の梨本という土地の土が耐熱煉瓦に適しているという事が判明し、馬の背に土を載せ天城越えをして運び込み、伊豆、相模、武蔵、三河の各地から瓦職人を呼び寄せ、遂に1700℃の高温に耐える煉瓦の製造に成功しました。この耐火力は現在の製鉄炉でも十分に耐えられるほどの性能なんだそうです。
因みにこの時、江川英龍が造り上げた耐熱煉瓦は、その後官公庁の建物の素材として大いに利用され、明治時代のシンボルになっていきます。こうして、ようやく出来た反射炉でしたが、サイズが小さすぎて、思ったような鋼鉄を得る事が出来ませんでした。
三年半の歳月をかけて韮山に本格反射炉が完成
困っていた英龍達ですが、ここでペリー来航の時代の風雲が到来し、急遽幕府から鋳造大砲の製造命令が英龍に下ります。そこで英龍は、地の利がある南伊豆下田在本郷村高馬の稲生沢川河畔に、本格的な反射炉建設の許可を請願。安政元年にこれが許可されました。今度こそ反射炉が造れると大喜びの英龍でしたが、そこに再びトラブルが発生します。やっとこさ耐熱煉瓦を積み上げて操業を開始しようと思った矢先、そこにアメリカ人水兵がやってきて、反射炉を見物しだしたのです。
幕府は国家機密がアメリカ人に盗まれると神経をとがらせ、反射炉建設を中止して、韮山に造り直せと英龍に命じました。
「そんなバカな!反射炉なんて、アメリカでは、とっくに時代遅れだ。それを見せたからって機密も何もないじゃないか!」
折角、見つけ出した絶好の反射炉建造地を廃棄するように命じられ、英龍は憤慨しますが、バカな命令でも幕命は幕命、泣く泣く従うしかありませんでした。韮山は近くに耐熱煉瓦に適した土もなく、やむなく、梨本から馬の背に120キロの土を積んで韮山に運ばせます。これでは反射炉の完成は、いつになる事やらと、英龍は輸送力の低さにイライラしますが、幸いな事に梨本程でないにしろ、耐熱煉瓦に向く良質な土が韮山の背後の山田山狩野川沿いで発見され、英龍は重要な部分は梨本の耐熱煉瓦、その周囲を山田山の耐熱煉瓦で覆い、三年半の期間を掛け、安政四年六月に反射炉は完成します。
しかし、江川英龍は激務の為に体調を崩し、完成の二年前に死去していたので指揮は息子の江川英敏に引き継がれていました。
大島高任と溶鉱炉建設
韮山の反射炉は、たたら製鉄で出来た鉧鉄を反射炉で溶かす事で運営していましたが、砂鉄に頼らずに鉄鉱石で良質な鋼鉄を造る試みも同時進行していました。たたら製鉄で生み出される和銑は、まだまだ空気を多く含んで気泡が多かったのです。鍛造で造られる農具や刀なら鎚で叩く事で酸素を取り除く事が出来ましたが、鋳造の大砲ではそうはいきませんでした。
盛岡藩医の息子で蘭学者の大島高任は、良質の鉄鉱石が産出する釜石の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として、洋式高炉の建設に着手します。その外面は石を畳み、内側には耐火煉瓦を張りつめ、鉄条で強度を補強し高さは7メートル、送風は水車を使って鞴を吹かせました。かくして、安政4年12月1日に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功。これで、鉄鉱石を溶解して銑鉄を造り反射炉で溶かして製品化するという近代製鉄が完成します。しかし、こうして苦労して出来た銑鉄の産出量は、一日で僅か1トン。技術的には西洋においついた日本ですが、今度は銑鉄の大量生産という課題に直面するのです。
日本を近代化した八幡製鉄所
鋳造大砲で黒船から日本を守ろうとした徳川幕府は尊皇攘夷の熱の前に自ら崩壊します。こうして、明治維新を迎えた日本では、近代化を達成する為に銑鉄の増産は急務となります。その為、佐賀藩や薩摩藩の反射炉や釜石の溶鉱炉は維新後は、陸軍省、海軍省に移管され、細々と産出量は増加していきました。
大島高任が建造した釜石の高炉では、明治十三年、国費二百五十万円を投じて、イギリスから買い入れた鉄皮式スコットランド型の25トン木炭溶鉱炉二基、及び、これに付属する熱風炉、送風機、汽罐などの近代設備を完備した製鉄所が完成します。ところが、鳴り物入りで建造された釜石の洋式製鉄所は、一日の鋼鉄産出量が7トン、木炭を一日37.5トンも使用するので、当初から燃料不足が懸念されました。その後も閉塞事故や、石炭火災などで創業は度々停止し、日本初の本格洋式製鉄所は、操業三年で民間に払い下げられる皮肉な結果になります。一方で伝統的なたたら製鉄も、安い海外産の鋼鉄に押されていきます。たたら製鉄は大蔵省の管轄にされて一応存続しますが、その後も経営不振が続き、官営にされたり民営にされたりで、淘汰の波を乗り切る事が出来ず、陸海軍に技術が残ったものの民間でのたたら製鉄は終りを告げます。
近代化に必要不可欠な鋼鉄は、その国産化の必要が叫ばれつつも、99%が輸入と危うい状態のままでしたが、明治28年の日清戦争の開戦で、皮肉にも深刻な鉄鋼不足が政財界に周知され、明治二十九年に帝国議会で、予算四百九万五千七百九十三円が可決し、その後も追加予算がつけられ、千九百二十万円の多額の予算で福岡県遠賀郡八幡村に八幡製鉄所が完成します。
八幡製鉄所は当初年間9万トン、その後設備を増強し、最終的には年間16万トンの鋼鉄を生産できるようになりました。安政四年に大島高任が築いた釜石の溶鉱炉の年間銑鉄量365トンの実に500倍以上の鋼鉄が造れるようになり、その後も同様の製鉄所が日本各地で操業を開始。日本の製鉄事業は一応の完成を見るのです。
鉄の日本史ライターkawausoの独り言
ペリー来航は、日本人に近代化とそれに必要不可欠な鋼鉄の増産を痛感させました。独自の発展を遂げていた、たたら製鉄と鉄砲製造にも援用できた鍛造技術ですが、一方で鋳造技術は江戸時代の初期のままで停滞したままでした。
200年以上は遅れた鋼鉄の製造に向けて、江川英龍を始めとするエンジニアや蘭学者はチームジャパンで命を刻むような思いで、何度も失敗を繰り返しながら反射炉、溶鉱炉の自作に取り組み、幕府崩壊を止める事は出来なかったものの、純度の高い鋼鉄を造れるまでには技術革新を果たしていました。これを受け継いで明治政府は積極的に海外の製鉄技術を導入し、日清戦争後には近代的な製鉄所である八幡製鉄所の操業に漕ぎつけ近代国家としての歩みをスタートさせたのです。長い長い、日本人と鉄のお話、本日は、これにておしまい。
参考文献:鉄から読む日本の歴史
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