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鎌倉幕府では悪口が禁止になっていたって本当?

2020年3月6日


 

 

人間関係を地味に破壊するのが悪口です。他人への陰口は知らない内に本人の耳に入ったりしますし、自分の悪口を間接的に人から聞くと本人から言われるよりも、ダメージが大きかったりします。そんな人間関係を破壊する悪口、鎌倉幕府では処罰されるほどの厳罰だったのです。

 

そこで今回は知られざる、鎌倉時代の禁止悪口について解説してみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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刃傷沙汰を回避する為に貞永式目は悪口を禁じた

安藤信正(幕末)

 

鎌倉幕府は、貞永式目(じょうえいしきもく)を制定し、その中で闘殺(とうさつ)(もと)悪口(あっこう)より起ると規定し武士の間での悪口(わるくち)を禁じ、破った場合には厳罰が課されました。ここで注目すべきは、貞永式目が厳しく禁じているのは、武士同士の悪口であり、庶民の悪口については、大目に見ているという事です。

幕末75-3_武市半平太

 

その理由は武士が何よりも体面を重んじ、誇りを傷つけられることを嫌う人種である事があります。武士にとって面と向かっての悪口で体面を傷つけられるのは、我慢できない事であり、しばしば抜刀しての斬り合いに発展し、大勢の死傷者を出していました。

 

現代とは違い、貞永式目では激烈ですぐに自力救済(じりききゅうさい)に訴える武士のプライドを刺激しないように、悪口禁止令が出されたのです。

 

盲目、乞食、恩顧の仁、髻を断つが悪口

表情 kawausoさん02

 

では、具体的にどんな悪口が処罰の対象になったのでしょうか?

 

建暦三年(1213年)和田合戦において、波多野忠綱(はたのただつな)三浦義村(みうらよしむら)が敵陣一番乗りの功績を巡って争いました。その口論の途中、波多野が「前を進む俺の姿が見えぬとは、義村は盲目(もうもく)であるか」と罵倒したのです。すると幕府は、盲目と口走った波多野忠綱の発言を問題視し、恩賞どころか処罰しました。

 

kawauso編集長

 

当時、盲人(もうじん)は公然と差別されていて、盲目と言われる事は侮辱にあたりました。幕府はこれを貞永式目に照らして悪口に当たるとして処罰したのです。また、別の口論では、昔は乞食(こじき)のように諸国を渡り歩いていた癖に・・と他者を罵倒した武士が、同じく処罰されています。

 

 

これらの事実は、鎌倉時代、盲人と乞食が公然と差別されており、これらの言葉が人を貶める言葉として広く認識されていた事を伝えています。もうひとつ、恩顧(おんこ)の仁というワードも悪口の対象でした。恩顧の仁と言われてもピンと来ませんが、これは、お前は昔、俺の子分だっただろうという意味でした。鎌倉武士は独立独歩の人々が多いので、誰々の子分と言われる事が非常な侮辱(ぶじょく)になったのです。この辺は現代の感覚とは違いますね。

 

元服をしているシーン(日本人)

 

(もとどり)を断つとは、髷を結っていた当時の習俗です。鎌倉時代、元服した武士は額の部分を剃り上げ、残りの頭髪を後頭部に持ってゆき、そこで髪を(まと)(ひも)で縛り(こうがい)を差して固定し、その上から烏帽子(えぼし)を被っていました。当時は烏帽子を被らないのは全裸で道を歩くような大変な不名誉でした。髻を断たれると笄も刺せず烏帽子も被れないので、髻を断つとは、お前を社会的に抹殺してやるという意味になるのです。このように、当時は多くの禁止悪口があり、裁判で興奮して相手を罵ると一転して負けになってしまう事がよくあったのです。

 

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事実を公然と指摘する事は無罪

鎌倉時代の侍

 

現在の民法では、例え事実でも、その人が言われたくない名誉に関する事を人前で公然と告げると名誉棄損罪(めいよきそんざい)になりますが、貞永式目ではそうではありませんでした。例えば、お前の母は白拍子(しらびょうし)(遊女)だったではないかと悪口を言った武士に対しては処罰がありませんでした。それは、言っている事が事実で悪口とは言えないと判断されたからだそうです。これだと、実際にハゲている武士に、このハゲという分には罪にはならなかったんですかね?なんだか理不尽な気もしますが・・

 

源頼朝の悪口

平清盛 鎌倉幕府

 

このように、悪口は処罰の対象だったのですが、一方で鎌倉幕府の創始者だった源頼朝(みなもとのよりとも)が、部下に投げつけた悪口の記録が残っています。それは、御家人(ごけにん)二十四人が頼朝の許可を得ないで朝廷から官位を受けた時のもので、吾妻鏡(あづまかがみ)に原文がありますが、感情的になっていたのか、あらん限りの悪口を並べています。幾つか紹介しましょう。

 

・奥州の田舎武士が大した出世だなこのイタチ野郎

佐藤兵衛尉忠信(さとうひょうえのじょうただのぶ)

 

・首を斬られる前に、鍛冶屋にお願いして鉄板でも首に巻いてもらえや

渋谷馬允重助(しぶやうまのじょうじゅうすけ)

 

・貴様が官位?ネズミのような目をして戦場をきょろきょろしてただけだろ!

後藤兵衛尉基清(ごとうひょうえのじょうもときよ)

 

・このくそハゲ、お前が刑部とか草ww

梶原刑部丞友景(かじわらぎょうぶのじょうともかげ)

 

・顔色も悪いし薄々バカとは思っていたが、やはりバカだったな

中村馬允時経(かかむらうまのじゅうときつね)

 

・生っちろい間抜け顔をしているお前が兵部尉だと、よく勤まるよな

豊田兵衛尉義幹(とよだひょうえのじょうよしもと)

 

そこまで言わなくてもいいだろうという程の悪口のオンパレードですが、良い意味でとれば、部下の顔の特徴をよく覚えているとも言えます。武家の棟梁(とうりょう)からして、この調子という事は、悪口は禁止しないと止めようもなかったのでしょう。

 

鎌倉時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

このように貞永式目の悪口禁止令は、現代の人の心を傷つけるという意味合いと違い、尋常ではないほどに誇り高い武士が悪口を契機(けいき)に血みどろの殺し合いをする事を阻止する目的で制定されました。それだけ、悪口を契機に引き起こされる喧嘩(けんか)が多かったんでしょうね。

 

参考文献:日本中世への招待 朝日新書

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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