人間関係を地味に破壊するのが悪口です。他人への陰口は知らない内に本人の耳に入ったりしますし、自分の悪口を間接的に人から聞くと本人から言われるよりも、ダメージが大きかったりします。そんな人間関係を破壊する悪口、鎌倉幕府では処罰されるほどの厳罰だったのです。
そこで今回は知られざる、鎌倉時代の禁止悪口について解説してみます。
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刃傷沙汰を回避する為に貞永式目は悪口を禁じた
鎌倉幕府は、貞永式目を制定し、その中で闘殺の基は悪口より起ると規定し武士の間での悪口を禁じ、破った場合には厳罰が課されました。ここで注目すべきは、貞永式目が厳しく禁じているのは、武士同士の悪口であり、庶民の悪口については、大目に見ているという事です。
その理由は武士が何よりも体面を重んじ、誇りを傷つけられることを嫌う人種である事があります。武士にとって面と向かっての悪口で体面を傷つけられるのは、我慢できない事であり、しばしば抜刀しての斬り合いに発展し、大勢の死傷者を出していました。
現代とは違い、貞永式目では激烈ですぐに自力救済に訴える武士のプライドを刺激しないように、悪口禁止令が出されたのです。
盲目、乞食、恩顧の仁、髻を断つが悪口
では、具体的にどんな悪口が処罰の対象になったのでしょうか?
建暦三年(1213年)和田合戦において、波多野忠綱と三浦義村が敵陣一番乗りの功績を巡って争いました。その口論の途中、波多野が「前を進む俺の姿が見えぬとは、義村は盲目であるか」と罵倒したのです。すると幕府は、盲目と口走った波多野忠綱の発言を問題視し、恩賞どころか処罰しました。
当時、盲人は公然と差別されていて、盲目と言われる事は侮辱にあたりました。幕府はこれを貞永式目に照らして悪口に当たるとして処罰したのです。また、別の口論では、昔は乞食のように諸国を渡り歩いていた癖に・・と他者を罵倒した武士が、同じく処罰されています。
これらの事実は、鎌倉時代、盲人と乞食が公然と差別されており、これらの言葉が人を貶める言葉として広く認識されていた事を伝えています。もうひとつ、恩顧の仁というワードも悪口の対象でした。恩顧の仁と言われてもピンと来ませんが、これは、お前は昔、俺の子分だっただろうという意味でした。鎌倉武士は独立独歩の人々が多いので、誰々の子分と言われる事が非常な侮辱になったのです。この辺は現代の感覚とは違いますね。
髻を断つとは、髷を結っていた当時の習俗です。鎌倉時代、元服した武士は額の部分を剃り上げ、残りの頭髪を後頭部に持ってゆき、そこで髪を纏め紐で縛り笄を差して固定し、その上から烏帽子を被っていました。当時は烏帽子を被らないのは全裸で道を歩くような大変な不名誉でした。髻を断たれると笄も刺せず烏帽子も被れないので、髻を断つとは、お前を社会的に抹殺してやるという意味になるのです。このように、当時は多くの禁止悪口があり、裁判で興奮して相手を罵ると一転して負けになってしまう事がよくあったのです。
事実を公然と指摘する事は無罪
現在の民法では、例え事実でも、その人が言われたくない名誉に関する事を人前で公然と告げると名誉棄損罪になりますが、貞永式目ではそうではありませんでした。例えば、お前の母は白拍子(遊女)だったではないかと悪口を言った武士に対しては処罰がありませんでした。それは、言っている事が事実で悪口とは言えないと判断されたからだそうです。これだと、実際にハゲている武士に、このハゲという分には罪にはならなかったんですかね?なんだか理不尽な気もしますが・・
源頼朝の悪口
このように、悪口は処罰の対象だったのですが、一方で鎌倉幕府の創始者だった源頼朝が、部下に投げつけた悪口の記録が残っています。それは、御家人二十四人が頼朝の許可を得ないで朝廷から官位を受けた時のもので、吾妻鏡に原文がありますが、感情的になっていたのか、あらん限りの悪口を並べています。幾つか紹介しましょう。
・奥州の田舎武士が大した出世だなこのイタチ野郎
佐藤兵衛尉忠信
・首を斬られる前に、鍛冶屋にお願いして鉄板でも首に巻いてもらえや
渋谷馬允重助
・貴様が官位?ネズミのような目をして戦場をきょろきょろしてただけだろ!
後藤兵衛尉基清
・このくそハゲ、お前が刑部とか草ww
梶原刑部丞友景
・顔色も悪いし薄々バカとは思っていたが、やはりバカだったな
中村馬允時経
・生っちろい間抜け顔をしているお前が兵部尉だと、よく勤まるよな
豊田兵衛尉義幹
そこまで言わなくてもいいだろうという程の悪口のオンパレードですが、良い意味でとれば、部下の顔の特徴をよく覚えているとも言えます。武家の棟梁からして、この調子という事は、悪口は禁止しないと止めようもなかったのでしょう。
鎌倉時代ライターkawausoの独り言
このように貞永式目の悪口禁止令は、現代の人の心を傷つけるという意味合いと違い、尋常ではないほどに誇り高い武士が悪口を契機に血みどろの殺し合いをする事を阻止する目的で制定されました。それだけ、悪口を契機に引き起こされる喧嘩が多かったんでしょうね。
参考文献:日本中世への招待 朝日新書
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