2020年1月19日より放送開始されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。皆様、ご覧になっているでしょうか?
今回はその「麒麟がくる」とも関わりの深い戦国時代の大事件、『本能寺の変』にまつわるミステリーを、大胆推理しちゃいます!!
実は、織田信長は生きていた!?
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この記事の目次
『本能寺の変』ってどんな事件?
本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日に起きた、日本の戦国時代における事件です。京都の本能寺に宿泊中だった織田信長が、謀反を起こした家臣、明智光秀によって襲撃を受けた末。
自決したとされる事件です。この事件は後に豊臣秀吉による全国制覇につながる、まさに戦国時代のターニングポイントとも言える出来事でした。
実は、この『本能寺の変』は、数々のミステリーがあることでも知られています。事件の直接の実行犯になったのは確かに明智光秀でしたが、彼の単独犯説には古くから異論があり、実は黒幕がいたのではないかという議論が長きにわたって続いています。
黒幕説と共に、『本能寺の変』のミステリーのひとつとして知られているのが、『信長の首級(遺体)の行方』の謎です。
織田信長の最期はどんな感じだった?
『本能寺の変』における、織田信長の最期の様子は、信長の元家臣であった太田牛一が江戸時代初期に記した「信長公記」や。イエズス会士として日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスの記した「一五八二年日本年報追加」という文献に見られ、それは概ね次のようであったと言います。
本能寺に突入した明智勢の兵が織田信長を発見、その背中に矢を射掛けます。信長は背中に刺さった矢を引き抜くと槍(もしくは薙刀)を使って抵抗します。しばらくは敵の攻勢を防いでいた信長でしたが、明智勢の銃撃で腕を負傷、自らの部屋に逃げ込んで戸を閉じました。
この後、信長は部屋の中で切腹をして果てたとされていますが、実際にどのような最期を遂げたか、はっきりとしていません。なぜなら、信長の遺体は発見されていないからです。
明智光秀は信長の遺体を探したが……。
謀反を起こした明智光秀にとって、信長の「首級(生首)」は絶対確保する必要のあるものでした。なぜなら、「首級」は敵を討ち取ったことを証明する最も確かな証拠であり、光秀が『本能寺の変』以降、諸侯に対しアドバンテージを獲るためには必要不可欠なものであるからです。
「討ち取った」という話だけでは、信長の死が疑われ、最悪、「実は生きている」という話にすらなりかねません。あるいは生きている可能性もあります。そうなっては謀反を起こした意味がありません。だから、光秀は一族の明智光満に命じて、信長の死体を捜索させています。しかし、ついにその遺体が発見されることはありませんでした。
信長の首級が発見されなかった理由に関する様々な説
織田信長の遺体が発見されなかった理由については、諸説存在しています。一般的な歴史解釈では、信長の遺体が発見されなかった理由は、本能寺が事件によって火災を起こしたため、多数の焼死体が残ってどれが信長の遺体であったか判定できなかった為とされています。
本能寺の火災によって、集積されていた火薬が爆散し、遺体がバラバラになって四散したという説もあります。しかし、フロイスの文献を始め、第一級史料とされる書物文献には、『本能寺の変』において爆発が生じたという表記は見られず、この説はありえないとされています。
有力視される見方のひとつに、信長の「首級」だけが密かに本能寺から持ち出されたのではないか、とする説があります。明智光秀が必要としたのはあくまで「信長の遺体」であり、その遺体が織田信長本人であるかどうか、その証拠となるのは顔、つまり「首級」です。
光秀の目的を見抜いた信長が、自分の遺体を光秀に利用させないために、切腹後に自分の「首級」だけを家臣の誰かに秘密裏に本能寺から運び出させたのではないか、というのがその仮説です。
持ち出されたとされる「首級」の行方についても諸説あります。愛知県にある「西山自然歴史博物館」には織田信長の「デスマスク」(石膏や蝋などでかたどった死者の顔)と言われるものが保管されています。これは、『本能寺の変』当時、信長の長男、織田信忠の家臣であった前田玄以が命令によって制作したとされています。
本能寺の近くにある阿弥陀寺には、『信長公阿弥陀寺由緒之記録』という文献が残されています。その文献によると『本能寺の変』の当時、阿弥陀寺の住職であった清玉上人が、本能寺裏手で信長の遺体を焼いていた織田勢の家臣から信長の遺骨を譲り受け、密かに運び出して、後に『本能寺の変』において死んだ息子の信忠と共に休養したとされています。しかしその文献は江戸時代以降、1718年に記されたものであることがわかっており、信憑性が疑われています。
『本能寺の変』の前夜、信長は本能寺に招いた囲碁の名人の勝負を観戦したという記録が残っています。この時、招かれた囲碁の名人であり、日蓮宗の僧侶でもあった本行院日海(本因坊算砂)という人物が本能寺に宿泊しており、彼によって信長の「首級」が持ち出されたとする説もあります。この説では信長の「首級」は、静岡県富士宮市にある西山富士山本山寺にある「信長の首塚」に現在も葬られているとされています。
信長の「首級」を本能寺から持ち出したのは「黒いサムライ」だった!?
織田信長の「首級」が本能寺から持ち出された、という説自体、あくまで仮説に過ぎず、誰が持ち出したかについても様々な説がありますが、中でも特に目を引くのが、「弥助」という人物です。
「弥助」は北東アフリカのモザンビーク(もしくはエチオピア)出身のアフリカ人とされる人物です。実は、この弥助によって、信長の「首級」が本能寺から持ち出されたという説があるのです。
奴隷商人によってインドに連れてこられたアフリカ出身の黒人の青年「イサク」は、イエズス会の司祭だったアレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に来日します。ヴァリニャーノは当時の日本では最大の権力者であると目されていた織田信長に会おうと京都を訪れ、ヴァリニャーノの従者であったイサクもこれに同行。京都の街でイサクを見かけた町人たちの噂となり、見物人がケンカを起こす騒動まで発展したと言います。この騒ぎは当の信長の耳にも入り、彼は黒人イサクに興味を持つことになります。
イサクを気に入った信長は、ヴァリニャーノからイサクを百両という大金で買い取り、小姓として側に置くようになります。また、信長はイサクに「弥助」という漢字の名前を与えました。
小姓として信長の身近に置かれた弥助は、『本能寺の変』と同年に起こった甲州征伐でも信長に付き従い、『本能寺の変』の際にも、信長と共に本能寺に宿泊、そこで明智勢の襲撃を受けています。
信長の小姓として戦場を駆けた「黒いサムライ」
『本能寺の変』において、弥助は信長を守って戦いましたが、信長の死を見届けると、二条御所にいた織田信忠に異変を知られ、今度は信忠と共に明智勢に立ち向かっています。しかし、結局追い詰められた信忠は自害し、弥助は明智勢に捕らえられてしまいます。
信長の行方を探すのに夢中になっていたせいか、明智光秀は弥助の存在を軽く見て、殺す価値もないものとして弥助を生きたままイエズス会に返却しています。弥助に関する記録は『本能寺の変』を最後に途絶えており、その後の行方は解っていませんが。『本能寺の変』の2年後(1584年)に起こった「沖田畷の戦い」において有馬晴信の軍勢の一員として大砲を扱っていた黒人の存在が確認されており、この黒人が弥助だったという説があります。
尤もこの時代、日本に渡来した黒人は弥助一人ではなかったことも知られており、この「沖田畷の戦い」で戦っていた黒人が弥助であるという確かな根拠はないことも事実です。
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