キングダム「実は六人じゃない!旧六大将軍を徹底紹介」

2020年3月18日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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嬴政(始皇帝)

 

現在キングダムでは、(ぎょう)攻めがスピード決着し論功行賞を経て誰が大将軍になるのかに注目が集まっています。しかし、今の六大将軍は蒙武(もうぶ)が提唱したものであり、それ以前には秦の昭襄王(しょうじょうおう)が招集した旧六大将軍がいました。

 

朝まで三国志 kawauso

 

でも、旧六大将軍の活躍はあまり知られていませんよね?

そこでkawausoが秦本紀で調べてみると、旧六大将軍は、実は六名どころではなかった事が分かりました。

 

旧六大将軍1 司馬錯

魯淑

 

旧六大将軍の一番手は司馬錯(しばさく)です。紀元前301年に蜀侯の()が叛いた時、司馬錯が蜀を平定しました。紀元前291年、左更に昇進した錯は、()及び(とう)を取っています。次に紀元前289年、司馬錯は、(えん)河雍(かよう)決橋(けっきょう)を攻め取っています。紀元前286年、錯は魏の河内を攻め、魏は安邑(あんゆう)を秦に割譲しました。紀元前280年、司馬錯は楚を攻めて次に罪人を赦し、これを南陽に移動させています。当時の楚は人口が希薄なので秦の罪人を許して植民させたのでしょう。さらに同年、司馬錯は隴西(ろうせい)を出発して蜀に駐屯し、楚の黔中(てんちゅう)を攻め陥落させています。

 

旧六大将軍2 庶長奐

呂壹

 

庶長奐(しょちょうかん)の庶長とは爵位の事で氏は不明です。司馬錯が蜀を平定したのと同年に奐は楚を討ち首を斬る事2万の手柄を立てます。次に紀元前298年、奐は、楚を攻めて8城を獲り将軍景快(けいかい)を殺しました。これだけくっきりと手柄があるのだから、庶長奐も加えて七大将軍でもいいと思いますけどね。

 

キングダムネタバレ考察

 

旧六大将軍3 羋戎

飢えている王忠

 

羋戎(びじゅう)とは、秦の昭襄王の生母、宣太后の弟で、元々、東周にいましたが、姉の宣太后の招きで秦に入り、華陽君の称号を与えられ、左丞相として魏冄(ぎぜん)と共に秦の朝政を取り仕切った人物です。

昭襄王8年紀元前298年、斉・韓・魏の三国合従軍が函谷関に攻め寄せた際は秦軍の総司令官を務めて、斉の匡章(きょうしょう)率いる合従軍の攻撃から函谷関を守りました。同年に楚を攻めて新市を取っています。

 

旧六大将軍4 向寿

戦いに敗れる劉岱

 

向寿(しょうじゅ)は紀元前294年に登場し、韓を伐ち武始(ぶし)を取っています。さすがに手柄が少ないので六大将軍は無理でしょう。

 

旧六大将軍5 白起

白起(春秋戦国時代)

 

紀元前293年に左更白起(さこうはくき)が初めて登場、韓・魏を伊闕(いけつ)に攻め、首を斬ること24万人。公孫喜(こうそんき)を捕虜にし五城を抜きます。ついで、翌紀元前292年、大良造(だいりょうじょう)に昇進した白起が魏を攻めて、垣を取りこれを与える。楚を攻め宛を取るとあります。デビューからして24万も敵を斬り、敵将を捕虜にする天才ぶりです。

 

紀元前280年、白起は趙を攻め、代の光狼城(こうろうじょう)を取っています。紀元前279年白起、楚を攻め、(えん)(とう)を取り、罪人を赦してこれを移動させ、翌年楚を攻め、楚の王都郢を取り秦に組み込んで南郡と改称します。楚王は都を逃げだし、白起は功績で武安君に封じられました。

 

紀元前276年、白起は魏を伐って二城を取っています。紀元前264年、武安君白起は韓を攻めて九城を抜き、首を斬ること五万の戦果を挙げています。紀元前260年、秦、韓の上党を攻めますが、上党は秦を嫌がり趙に降伏、秦はこれを恨んで趙を攻め、趙も兵を発し秦を撃ち激闘します。

 

春秋戦国時代の白起、デビュー戦から大殺戮

 

秦は、武安君白起を出馬させ、趙を長平に破り降伏した趙兵40万余りを穴埋めにして殺します、これもキングダムではお馴染みですね。紀元前257十月、武安君白起は、秦王に疎まれ兵卒に降格されて更迭。間もなく死を賜り自害します。

旧六大将軍6 蒙武

蒙武

 

あのムキムキマッチョの蒙武とは同姓同名の別人です。紀元前285年、斉を伐つとだけあります。この人は六大将軍からは除外ですね。

 

旧六大将軍7 斯離

李元昊

 

斯離(しり)は紀元前284年に登場します。三晋(さんしん)(韓・魏・趙)及び燕と合従軍を結成して斉を伐ち、これを済西に撃破します。具体的な手柄は不明ですが、自ら合従軍を組織する手腕は六大将軍として遜色ないと思います。

 

旧六大将軍8 蜀守若

華雄(かゆう)

 

紀元前277年、蜀守若(しょくしゅじゃく)()を伐ち、巫郡(ふざん)及び江南を取って秦領に組み込んで黔中郡(けんちゅうぐん)としたとあります。この人も、蜀の太守という意味で、名前の若だけが伝わります。六大将軍としては、活動が地味ですね。

 

旧六大将軍9 魏冉

魏の忠臣・徐宣(じょせん)

 

紀元前275年、相穣侯(そうじょうこう)魏冉(ぎぜん))は、魏を攻めて王都の大梁に至り、魏将暴鳶(ぼうえん)を撃破。鳶は敗走、首を斬ること四万。窮した魏は三県を秦に割譲して和睦します。

 

旧六大将軍10 胡傷

 

紀元前274年に登場、キングダムで言う公孫胡傷(こうそんこしょう)です。身分は客卿(かくけい)ですが、魏の(かん)蔡陽(さいよう)長社(ちょうしゃ)を攻めて落としています。ここでは魏将芒卯(ぼうう)を華陽に打ち破り、首を斬ること十五万と派手な殺戮をし、魏は恐れて南陽を割譲して和睦します。紀元前269年、中更の爵位を得て趙の閼與(あつよ)を攻めますが、趙の将軍、趙奢(ちょうしゃ)に敗れ奪えませんでした。以後、秦本紀に登場しません。

 

旧六大将軍11 客卿竈

 

客卿竈(かくけいちょう)は、紀元前271年に登場、斉を攻め、剛・(とう)を取り、穣侯に与えるとあります。客卿とは外国の賓客の意味であり、伝わるのは名前の竈だけです。城を落としてはいるものの2城だけなので、六大将軍とまではいきませんね。

旧六大将軍12 五大夫賁

 

こちらも似てますが王賁(おうほん)ではありません、五大夫(ごだいふ)とは爵位であり氏ではありません。紀元前262年韓を攻め、十城を取っています。十城はスゴイですね、六大将軍にエントリーしても遜色ありません。

 

旧六大将軍13 王齕

亡くなる王騎

 

王齕(おうこつ)は、紀元前259年、趙の王都邯鄲(かんたん)を攻める攻めないで白起が秦王と揉めて離脱したので、代わりに司令官になり、趙の武安と皮牢を伐ち陥落させました。翌年、五大夫陵と指揮官を変更、しかし五大夫陵は、援軍を送っても勝てないのでクビにされ、王齕が代わって再び将となりました。

 

紀元前257年、王齕は邯鄲を攻めるも落とせずに退却し、(ふん)に駐屯していた張唐(ちょうとう)と合流。紀元前256年2月、王齕は晋軍を攻め首を斬ること六千、晋兵は我先に逃げ黄河に落ちて溺死二万人。次に張唐に従い汾城を攻め寧新中を陥落させ名を改め安陽と改称します。

 

旧六大将軍14 司馬梗

胡烈

 

紀元前259年、司馬梗(しばこう)という将軍も参加し北の太原を定め、尽く韓の上党を打ち破って奪い取ります。翌年の正月、兵を引いて秦領になった上党を守ります。もしかして趙の司馬尚(しばしょう)と縁戚か?と思いますが司馬は軍事を司る官職を氏にしたので、全くの赤の他人もあり得ます。

 

旧六大将軍15 五大夫陵

陳矯(ちんきょう)

 

紀元前259年、五大夫陵という将軍が趙の邯鄲を攻めます。翌年の正月、秦は陵に増援し支援しますが、陵は勝てずクビになりました。言わずもがな五大夫は爵位です。ま、この人は六大将軍には入らないですね。

 

旧六大将軍16 張唐

軍会議で的確に作戦指示を出す陳泰

 

張唐(ちょうとう)は、紀元前258年に初登場。魏を攻めますが、部下の蔡尉が陣地を棄てて守らないので、戻ってこれを斬るとあります。漫画同様に気難しい性格で部下に人気が無かったのでしょうか?

 

紀元前257年、張唐は鄭を攻めこれを陥落。十二月、兵を増援して汾城の傍らに布陣します。紀元前256年、2月王齕を副官として寧新中を落とし、寧新中を改称して安陽と名づけます。

 

旧六大将軍17 摎

廖化 四龍将

 

(きょう)は言わずと知れたキングダムでは、王騎の婚約者です。紀元前256年、将軍摎は韓を攻め、陽城・負黍(ふしょ)を取り、斬首四万人。趙を攻め二十余県を取り斬首と捕虜が九万人と大殺戮。

 

この頃、西周君が秦に背き諸侯と従を約し、天下の鋭兵を将いて伊闕(いけつ)を出で秦を攻めて陽城を封鎖します。秦は将軍摎を出して西周を攻め、西周君は驚き慌て自ら歩いて降伏し頓首して罪を受け、三十六城と人口3万人を秦王に献上しました。

 

キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

五十年にも及ぶ、秦の昭襄王の治世には、少なくとも17名の将軍クラスがいます。大半は、一行しか名前が出ませんが、斯離や庶長奐のように、六大将軍でもおかしくない将軍もいます。ちなみに王騎が出て来ませんが、王騎は秦本紀には登場せず、秦始皇本紀の紀元前246年、秦王政が即位した頃に出て来ます。王齕と同一人物とも言われていますが、それでも昭襄王の晩年の家来なんですね。

 

参考文献:秦本紀

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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