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この記事の目次
松永久秀、今度は信長に謀反
元亀四年、足利義昭と信長が決定的に不仲になると、三好義継と松永久秀は義昭について信長に敵対する道を選びます、二度目の謀反です。この時、久秀は上洛してくる武田信玄に部下を派遣して書状と弓を送っています。
しかし、頼みの信玄はすでに病没、義昭は信長にあっさり槙島城を追い出されて京都を追放され室町幕府は滅亡。さらに浅井・朝倉両氏も信長に滅ぼされ、頼みの三好義継も河内若江城で部下に裏切られ自害して果てました。この時、筒井順慶は信長サイドの部将として久秀を攻めているので、まさに全てが裏目、久秀泣きっ顔に蜂です。
織田軍は、松永父子が立て籠もる多聞山城を包囲します。ここに至り、松永久秀と久通父子は信長に降伏します。信長は「顔を見るだけでムカつく」と吐き捨てますが、多聞山城を差し出し、松永久通が子を信長の人質にし久通は信貴山城に入る事を条件に、今回は赦免します。
松永久秀、再度信長に叛き信貴山に死す
その後、久秀と久通父子は大和守護、塙直政と共に、大和十市郷の1/3を信長より与えられ、天正四年の本願寺攻撃に参加後、佐久間信盛と共に天王寺城の城番としておかれ、信長配下の一部将として活躍します。
しかし、久秀の内心では信長への不信が渦巻いていました。当初久秀は上洛する信長に大和国一国の安堵を願い、それを信長も後押ししました。ところが、同じく大和を狙う筒井順慶も織田家や将軍家に取り入り大和の支配が危うくなったのです。
さらに、信長は大和守護として塙直政を置き、久秀の大和支配を認めないばかりか、宿敵の順慶に、天正三年に娘か妹を嫁がせて姻戚関係を結びます。久秀の目には、信長がかつての足利義昭に見えたでしょう。
決定的なのは、天正六年(1576年)塙直政が、本願寺との戦いで戦死し、筒井順慶が繰り上げで大和国支配を任された事でした。これで、松永久秀と足利義昭との約束は完全に反故にされました。さらに順慶が人質として差し出していた母の帰国まで信長は許します。
これは筒井順慶が縁組で織田一門扱いになった事を意味します。一方で、久通の子は今でも信長の人質扱い、久秀と順慶との差は開くばかりでした。すでに七十歳を目前に将来を焦る久秀に、タイミング良く石山本願寺や足利義昭から誘いが掛かります。
「信長を討つ事に協力すれば大和一国はそちのものぞ・・」みたいな事でしょう。
こうして、久秀は天王寺砦を独断で出て、大和の信貴山城に立て籠もって信長に叛いたのです三度目の謀反でした。信長は驚き、松井友閑を使者にして、「不満があれば申せ、望みがあれば聴くぞ」と降伏を促しますが、松永久秀は「ちゃんちゃらおかしいわい、何を今さら」と黙殺、、天正五年の10月10日織田軍に包囲され、最後を悟った松永は、城に火を掛けて自殺しました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
松永久秀に取り大和支配は生涯の悲願でした。それが安堵されると思えばこそ、将軍の直臣にもなり信長にも仕えたのです。ところが、信長はそんな久秀の大和への執着が分からないように、大和の支配を筒井順慶に任せ、知らんふりでした。恐らく信長は土地へ執着する武士の行動原理が理解できず、大和じゃなくても、どこか適当な土地をやるから怒るなよ、、程度の感覚だったのでしょう。
参考文献:織田信長 不器用すぎた天下人
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