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郭援とはどんな人?魏の名族鍾氏に連なる残念将軍

2020年3月26日


 

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郭援

 

郭援(かくえん)は魏で三公(さんこう)にまで昇進した鍾繇(しょうよう)の姉の子に当たり、鍾会(しょうかい)伯父(おじ)でもあります。

 

亡くなる袁紹

 

但し、郭援自体は曹操(そうそう)には仕えず、袁紹(えんしょう)没後に袁尚(えんしょう)に仕え、曹操サイドに仕えた叔父の鍾繇と激突、骨肉の争いを演じる事になります。しかし、魏の元勲の一族なんだから、さぞかし手強いヤツかと思いきや、郭援は残念な将軍でした。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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挟み撃ちにするはずが最初からケチがつく郭援

 

官渡の敗戦のショックで202年に袁紹が死去すると、曹操は、袁紹の後継者である袁譚(えんたん)・袁尚を攻撃します。勢いで曹操に押された袁尚は、曹操の後方を脅かす作戦を取り、匈奴単于(きょうどぜんう)呼廚泉(こちゅうせん)平陽(へいよう)で反乱を起こさせてから、郭援と高幹(こうかん)数万の軍勢で曹操の領域に侵攻させます。

 

梁興と馬騰

 

この時、タイミングよく、馬騰(ばとう)も曹操を裏切って袁譚らに内通しようとしており、郭援には願ってもないチャンスでした。しかし、ここで叔父の鍾繇が郭援の弱点を分析。張既(ちょうき)傅幹(ふかん)に馬騰を説得させ味方に引き戻してしまいます。

 

馬騰

 

寝返った馬騰は馬超(ばちょう)龐徳(ほうとく)に兵一万人余りを預け鍾繇の援軍として、郭援と高幹に向かってきます。最初から、なんだかケチがついた郭援でした。

 

絳県の賈逵に足止めされる

賈逵(かき)

 

叔父の活躍で、馬騰の寝返りが帳消しになった郭援ですが、頑張って平陽城に向かって進撃します。しかし、たった一つ(こう)という県城だけが頑強に抵抗し落ちませんでした。ここでは、郡吏の賈逵が一年戦争のブライトよろしく、住民の心を掴んで激烈に反抗していたのです。イラついた郭援は呼廚泉を呼び出し、倍の兵力で烈しく攻めると、絳の父老は賈逵を助命する条件で降伏を受け入れます。

 

郭援は、賈逵の才能を買い俺の軍師になれと脅しますが、誇り高い賈逵は土下座させようとする兵士の手を振り払い、

 

「堂々たる長史(ちょうり)が賊に頭をさげられようか!」と叱りつけます。

魏志(魏書)_書類

 

魏略によると、賈逵は郭援にも「貴様は、どこの馬の骨だ?」と罵倒するような文言を吐いています。

 

匠に兵士を操る夏侯楙

 

これに怒った郭援は賈逵を斬れと命じますが、賈逵の男気に()れたのか、部下は賈逵に(おお)いかぶさるようにして助命を願い、さらに、絳の父老も賈逵を斬るなら城を枕に討ち死にだーとエキサイトします。賈逵、すげー人望です。

 

郭援は渋々賈逵を殺す事を諦め、穴倉の中に閉じ込め上に車輪を被せて部下に守らせ、いずれは殺そうとしていました。

 

今度は参謀が賈逵に味方する

牢獄に入れられる賈逵(かき)

 

穴倉に閉じ込められた賈逵は、大人しくすることなく、上の兵士に叫び続けます。

 

「ここに男は一人もいないのか?国を救わんとする義士を見殺しにするとは」

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

警備兵は、聞こえない振りをしましたが、祝公道(しゅくこうどう)という男が賈逵とは面識がないものの、立派な事を言っていると感じ入り、夜中に穴倉に忍び込んで賈逵を引き上げて(かせ)を折って逃がしてやりました。

 

一説では、この祝公道、郭援の参謀の祝奥(しゅくおう)だと考えられているそうです。もし、そうなら、郭援の人望のなさはかなりのものですね。

 

炎上する城b(モブ)

 

さらに賈逵は、皮氏(ひし)という城を先に奪い取ったほうが河東郡の戦いを制すと知り、祝奥を計略で七日間も足止めし、その間に曹操軍は皮氏を抑えたので、ついに郭援は河東郡を落とす事が出来ませんでした。郭援のツキの無さは、ちょっと洒落にならないですね・・

 

龐徳に首を斬られるが大将クビとは気づかれず・・

ホウ徳

 

その後、郭援・高幹の并州軍は、平陽において鍾繇・馬超・龐徳の関中軍と衝突します。先に汾水(ぶんすい)に至った郭援ですが、関中軍閥の力を軽視していました。そして、并州(へいしゅう)連合軍が先に渡河するのは危ないと諫言(かんげん)するのを無視して渡河します。

 

行軍する兵士達a(モブ)

 

鍾繇は郭援の性格を見抜き、并州連合軍が半分渡河した所で、関中連合軍で総攻撃を掛けます。これにより、前にも後にも進めない并洲連合軍は大混乱。郭援は乱戦の中で敵の龐徳に斬首されて戦死しました。まったくいい所がないままの呆気ない最期です。

 

ところが、龐徳は乱戦ゆえに自分が斬った首が大将クビとは思わずに弓袋に入れたままでした。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

やがて、曹操陣営では

 

「郭援の首がない!逃げられたのか」

と大騒ぎ、そこに龐徳が来て弓袋を(あさ)ると、そこから郭援のクビが出てきたのです。鍾繇は甥の郭援のクビを見て泣き叫びます。

 

朝まで三国志2017 観客 モブ

 

龐徳が気の毒になり陳謝すると鍾繇は

「我が甥とは言え、謀反人である。謝罪は無用」

と告げています。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

郭援は鍾繇の甥ですが、そんなに秀でた部分がありません。それよりなにより、大将になった晴れ舞台で、骨肉の鍾繇に妨害され、デビューしたばかりの賈逵に足を(すく)われ、最後には龐徳に、どこのだれかとも分らないままに殺されてしまうという、不幸の星の下に生まれた残念将軍なのです。もっと悲惨な事に、郭援、これだけ面白いオチを持ちながら三国志演義に出てきません。なにひとつ浮かばれない人物なのです。

 

参考文献:正史三国志

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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