NHK大河ドラマ「麒麟がくる」において、強烈な個性を放っているのが斎藤道三です。主人公の明智光秀が、わりとあっさりめな人物造形なのに対し、道三は戦の天才で頭もキレるものの、パワハラ体質でドケチ、気に食わない事があるとすぐに怒鳴り声を挙げ、光秀に無理難題を押し付けて困らせるアクの強い人物として描かれます。
そんな道三、麒麟がくる第17回「長良川の戦い」で討ち死にする運命ですが、今回は道三が死の前日に書いたとされる遺言状から、道三の生き方の美学を解説します。
この記事の目次
道三の遺言 美濃一国譲り状とは?
道三の遺言状とは、史料的には美濃一国譲り状と呼ばれています。
その名前の通り、道三にとっては娘、帰蝶を嫁がせた婿にあたる織田信長に美濃一国を譲ると書かれた文書で、道三の五男の斎藤利治から、織田信長に渡ったとされます。同時に妙覚寺に出家した二人の息子、日饒、日覚の一方か、両者に与えたとも言われています。
つまり、最大では計3通あるかも知れない遺言状ですが、本物かどうかについては、昔から議論の的で、信長の呼び方がおかしかったり、自分の領地を当国と書かず、美濃国と書いたり、文字が江戸時代の書体である等、不可思議な点は多いようです。
しかし、今回は遺言状の真偽については、深入りせず内容だけを解説します。
道三の生き方が凝縮した遺言状
さて、道三の遺言状は、現代語訳すると大体、以下の通りです。
書状を寄こしたのはほかでもない。美濃の国を織田上総介に譲る事に決めた故だ。
同じ事はすでに信長にも知らせてある。
お主はかねてからの手筈通り、京の妙覚寺に上り修行に励む事だ。
一子出家すれば九族が極楽往生できるという。妙覚寺には話をつけてあるゆえ案ずるな
思えば我が人生、すべて夢であった、
斎藤山城の生においては五体満足の立派な肉体を授けられ
生病老死の苦を逃れ、修羅場に向かい修行の功徳を得て極楽往生を遂ぐはむしろ嬉しい
父は明日、快く一戦し肉体を切り刻まれ成仏疑いなしである。
辞世
己以外の全てを棄てつつ、生きる所はこの世よりなし 別に安住の地のあるや?
斎藤道三
弘治二年(1556年)4月19日 道三(花押)
敬具
前半、仏教色の強い内容
斎藤道三は、現在では父、長井新左衛門尉と親子二代で美濃を乗っ取ったというのが定説です。幼少時に仏門に入っていたのは、父の新左衛門尉のようですが、二代目の斎藤道三も、天文二十三年(1554年)には仏門に入り入道になっています。
妙覚寺は日蓮宗の寺で、父の長井新左衛門尉が仏門に入った寺であり、その縁で道三も繋がりが強かったのかも知れず、殺伐とした道三の人生に似合わず極楽往生や功徳など仏教的な言葉が多く使われています。
道三が、末の息子二名を妙覚寺に入れたのは、義龍に殺されるリスクを回避する為と考えられます。当時は、後継者争いを回避すべく後継者以外の男子を仏門に入れる事がよくあり、戦国大名でも寺に押し入ったり、火をつけたりしないのが不文律でした。
義龍には辛く当たったかもしれない道三ですが、他の息子達には最後まで心を配っていたのでしょうか?
後半で仏教色を覆すyourShock
日饒、日覚に仏門に入るように諭し修行して、斎藤家の極楽往生を願わせつつ、次の段で道三は激しい生涯を夢のようだったと回想します。そして、五体満足の立派な肉体を授かり、当然、訪れるべき逃れ難き、生、病、老、死の苦痛を飛び越えて、戦場で功徳を積んで極楽往生とはラッキーだったと嘯くのです。
そして、明日は心ゆくまで戦い、五体満足の肉体を槍で突かれ刀で切り刻まれて欠損して、恨みは一つも残さず成仏疑いなしと、自らを客観視して笑っているかのようです。実際に道三の遺体は鼻を削がれたという話もあり、将来を暗示しているようにも見えます。
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