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この記事の目次
将軍を擁して上洛するモデルが完成
幽閉された足利義稙は伊豆に流される事を知り恐れて脱出。やがて、諸国を放浪していくようになり、自分を庇護してくれる戦国大名を求めます。そして明応8年(1500年)義稙は、山口に大内義興を頼り庇護されました。次いで永正7年(1507年)半将軍と呼ばれ絶大な権力を振るった細川政元が後継者問題で暗殺。これを収拾した細川澄元が後を継ぎますが、混乱により細川京兆家は分裂します。
この機に乗じて山口の大内義興が元将軍、足利義稙を奉じて号令を発し上洛を果たします。この上洛には周辺勢力も応じ、義興は再度、足利義稙を将軍職に就けました。結局、大内義興は領国の山口で問題が起き、京都から引き上げる事になりますが、以後、力を失った将軍を有力な戦国大名が担ぎ、天下に号令するというモデルが完成したのです。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長も、大内義興をモデルケースに上洛した事が、分かりますね。
上洛メリット
上洛は、将軍を擁していなくても、実行する事で戦国大名に色々なメリットがあります。例えば、将軍に幕府の官職をもらったり、天皇に朝廷の官位を受けるなどして、地位の高い肩書を得られると、周辺の戦国大名に対し優位に立てます。
例えば、越後の長尾景虎は、二度も上洛して関東管領の地位を保障されたり、美濃の斎藤義龍は幕府の四職、一色姓を名乗る事を許されて、織田信長よりも地位で上に立ったりしていますし、信長も上洛した事が記録されています。
ただ、これらの事は、相応のお金がないと出来ないので、余りに京都から遠かったり、途中に通せんぼしている敵が多い戦国大名には、上洛を諦め、領国経営に専念する者だって多くいた事が分かっています。どんな戦国大名も上洛を夢見たわけではないのですね。
江戸時代の上洛
徳川家康が天下を獲って、江戸に幕府を開いてからも、秀忠や家光までの将軍は、将軍宣下を受ける為に、京都二条城まで上洛していました。しかし、由比正雪の乱後、幕府の政治が盤石になると、将軍は上洛しなくなり、朝廷の使者が江戸城で将軍宣下を執り行う逆転現象が生じ、以来、幕末の14代将軍の徳川家茂まで200年以上、上洛は途絶えます。
逆に言うと、14代将軍、徳川家茂の上洛は江戸幕府の力が、もはや朝廷を頼らないと、どうにもならない程に衰えた象徴的な動きでもあったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
つまり上洛とは、①上洛陽という中国風の気取った呼び方であり、単に京都に上る事を意味している。②室町時代には、ほとんどの守護大名が上洛していた。③応仁の乱で、領地が心配になった守護大名は京都から消えた。④明応の政変で将軍が無力になると、実力を持つ地方の戦国大名が将軍を庇護して京都に上り、天下に号令するという意味に変化した。このように考える事が出来るでしょう。
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