晩年の蜀の衰退は、姜維の北伐のせいだ!いいや、文官たちをまとめられなかった劉禅の暗愚さが招いたのだと良く論争されていますね。確かに軍事面と政治面は対立しやすい傾向にあるのでこれも分からないことではありません。
しかしここで敢えて!敢えて実は姜維の北伐は劉禅の統治もあったのでは!?と妄想してみたいと思います。あくまでもいつもの妄想なので、どうか一献お付き合い下さいませ。
この記事の目次
劉禅は無能ではない
まずお断りしておきますが、筆者は劉禅を無能とは決して考えていません。むしろ劉備が亡くなった後のほとんど詰んでいるような状態で蜀を引き継がされて、周囲の手助けがあったにしろ40年ほど蜀を存続させています。
諸葛亮が亡くなってからは30年、これは評価されてしかるべき業績です。
劉禅はどうして三国志演義では無能扱いされている?
とは言え、三国志演義では蜀、特に諸葛亮とその後継者である姜維がかなり良い人物として描かれています。そして蜀の滅亡の原因として諸葛亮や姜維の北伐などが例え要因としてもあってはならなかったのでしょう。
このため三国志演義では蜀の衰退の原因として劉禅の存在が大きく描かれています。劉禅には皇帝としての責任はあるとは思いますが、全てが全て劉禅の責任かと言われると少し負担が大きすぎるのでは、と思いますね。
劉禅の能力は正当に評価したい
個人的な評価ですが、劉禅は有能な面もあり、暗愚な面もあったと思います。有能な部下たちを持っていた。彼らに仕事を任せられる判断能力があった。しかしその一方で放任の面も強く、それが自国の衰退も招いた。総合すると完璧だったとは言えないが、劉禅一人のせいで蜀が崩壊したと言われるほど無能ではないというのが筆者の劉禅の評価です。
姜維の北伐は、失策か?
姜維の北伐は国力を衰退させた原因というのは、今や疑問が持たれています。というのも兵や物資の負担はあっても国が崩壊するようなほどではなかったからです。
実際に鄧艾が蜀に攻め入った時には、物資などは蜀の規模を考えれば十分にあったとされています。もちろん国力が一切減退していない訳ではないでしょうが、それでも北伐だけが国を破綻させるほどの原因ではなかったと思われます。
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