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【素朴な疑問】さらし首の習慣はいつから生まれた?


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さらし首の習慣(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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安倍貞任一派の首を鋒に突き刺し掲げる

 

しかも、藤原季俊と一行は、凱旋パレードの後、そのまま平安京に入り検非違使(けびいし)に首を渡したのではありません。季俊と21名は粟田山の丘陵地に上り、少しウロウロした後、おもむろに自分達が取って来た安倍貞任(あべのさだとう)安倍重任(あべのしげとう)、さらに貞任の娘婿の藤原経清(ふじわらのつねきよ)の3名の首を鋒の先に突き刺して、これみよがしに観衆に高々と掲げて見せたのです。

 

 

東北の反逆者の首なんて、そうそう見る機会がない平安京の人々はこわいもの見たさで、随分見物に来たとかこうして、日没まで丘の上で首を平安京の人々に見せびらかした藤原季俊は、周囲が暗くなって観客に首が見えなくなると、そそくさと丘を下りて検非違使に首を引き渡して去っていきました。現金なもので、煽るだけあおってオシマイというわけです。

 

首を受け取った検非違使は、また別の鋒に3人の首を再度突き刺し罪人に首を持たせて、平安京の往路を進み、再び、後ろも向けない程の大勢の見物人が殺到したという事です。

 

さらし首を契機に戦勝後武士が凱旋するのが常態化

軍議(日本史)モブb

 

このように、朝廷の命令で罪人を首を平安京に送るようになった習慣は、その後発展拡充を繰り返し、前九年の役では、藤原季俊一派の戦勝凱旋パレードになっていき、さらにその後の武士は、朝敵を討伐した手柄の誉れとして平安京を凱旋して回るのが常態化していくようになります。

 

その後の武士も、褒美の証として敵将の首を重視するようになりますが、このような習慣も、藤原秀郷が平将門の首を取って平安京に送った、あの故事が元になっているような気がします。

 

平安時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、さらし首の習慣はいつから生まれたのかについて、色々と調べてみました。はじ三の調べでは、さらし首の第一号は天慶3年の平将門であるようです。

 

こうしてみると、さらし首は当初は市場にさらすだけであったのが、時代が下ると、凱旋パレードとセットになったりし、随分政治的に利用されたのが分かります。

 

それだけ生首というのはインパクトがあるという事なんですね。

 

参考文献:京都の誕生 武士が造った戦乱の都 文春新書

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-アンゴルモア 元寇合戦記
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