斯波義統とはどんな人?信長の尾張統一に力を貸した尾張守護

2020年5月1日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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斯波義統

 

美濃(みの)守護(しゅご)として傀儡(かいらい)土岐頼芸(ときよりのり)がいるように、尾張(おわり)にも守護斯波義統(しばよしむね)という人物がいました。土岐氏同様に守護代の織田氏に翻弄(ほんろう)された斯波氏ですが、敵の敵は味方で織田信秀(おだのぶひで)・信長には好意的に接していき、やがて彼の死が信長に尾張統一を果たさせる原動力になるのです。

 

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武闘派だった父斯波義達の嫡男として誕生

軍議(日本史)モブb

 

斯波義統は永正十年(1513年)尾張守護斯波義達(しばよしたつ)嫡男(ちゃくなん)として誕生します。元々斯波氏は足利一門で、兵衛督(ひょうえとく)兵衛佐(ひょうえのすけ)を歴任した武門の家柄で武衛家(ぶえいけ)と呼ばれていましたがこの頃は応仁の乱後の余波(よは)を被り、駿河(するが)守護の今川氏親(いまがわうじちか)の攻勢を受けて遠江(とうとうみ)を奪われる事態に(おちい)っていました。

 

義達は永正10年に反攻を図って遠江の国人大河内貞綱(おおこうちさだつな)井伊直平(いいなおひら)と共に遠州に進撃しますが、氏親配下の武将・朝比奈泰以(あさひなやすもち)飯尾賢連(いいおかたつら)の前に大敗を喫しました。

 

この大敗は、守護斯波氏の勢力の低下を招き、配下だった守護代織田氏の反抗を呼び起こします。

 

元々、義達の遠江侵攻に批判的だった清須織田家(きよすおだけ)の守護代、織田達定(おだたつさだ)は義達に反旗を翻しました。斯波義達は織田達定と戦いこれを撃破して達定を自害に追い込みます。

 

邪魔者が消えた義達は、その後も遠江に侵攻、永正十二年引馬城(ひくまじょう)で再度今川氏親と戦いますが大敗し捕虜になる屈辱を受けます。同じ足利一門という事で義達は助命されますが、その条件として剃髪(ていはつ)、出家を余儀なくされ、僅か3歳の義統に家督を譲り隠居します。

 

幼少の為清須織田家の傀儡となる義統

織田彦五郎(織田信友)

 

尾張では応仁の乱後に守護代の織田家が分裂、尾張上四郡(おわりかみよんぐん)を支配する岩倉織田家(いわくらおだけ)下四郡(しもよんぐん)を支配する清須織田家に分裂していました。抗争の中、最初に岩倉織田家が没落。その後、勢力を伸ばした清須織田家の織田達定も、斯波義達の遠江侵攻に反対し反旗を(ひるがえ)し討伐された事で、こちらも没落します。

 

両守護家の没落により清須織田家の分家である清須三奉行の一人、織田信定(おだのぶさだ)津島(つしま)熱田(あつた)の海運を抑えて急激に勢力を伸ばしその地盤は息子の織田信秀(おだのぶひで)に引き継がれてさらに強化されました。ある意味、斯波義達の清須織田家の討伐が、織田信秀が勢力を伸ばす遠因になったと言えます。

 

清須織田家の織田達勝と織田信友(おだのぶとも)は、織田信秀や岩倉織田家を牽制すべく幼少の斯波義統を迎え傀儡としました。もちろん、清須織田家に斯波氏に権力を返すつもりはなく、義統は籠の鳥として忍従の日々を過ごす事になります。

 

麒麟がくる

 

成人した斯波義統は織田信秀に接近する

京都御所

 

斯波義統は、天文六年(1537年)4月から寺領安堵状(じりょうあんどじょう)の発給が見られ、傀儡なりに尾張統合の象徴としての役割を演じます。これは、美濃の土岐頼芸が実質権力がなくても、美濃の豪族の統合の象徴であったのと同じです。しかし、守護代の傀儡である義統がストレスと無縁であったハズもなく、必然的に清須織田氏を押しのけて台頭する織田信秀に対し好意的な目線を向ける事に繋がります。

 

織田信秀に接近する斯波義統

 

例えば、1544年に信秀が美濃へ侵攻した時には、義統は信秀よりも格上の岩倉織田家や同輩(どうはい)因幡守家(いなばのかみけ)などにも動員の下知を降すなど信秀が各地に討って出るのには好意的な態度を取っています。ただ、傀儡の斯波義統が自分の政敵である織田信秀と仲良くする事は清須織田家にとっては、不快な事でしかありません。こうして斯波義統と清須織田家当主の織田彦五郎(信友)の間で深刻な不和が広がる事になります。

斯波義統、織田彦五郎に弑逆(しいぎゃく)される

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

織田信秀が死去して、うつけと評判の織田信長が家督を継ぐと尾張に動揺が走り造反者が続出します。清須織田家もこれを期に信長に反旗を翻しますが、信長は叔父の守山城主織田信光と連合してこれを撃破しました。追い詰められた織田彦五郎は、信長暗殺を計画しますが、それを知った義統は家臣を通して計画を信長にリークし、信長は難を逃れました。

 

しかしこの事はすぐに彦五郎に知られる事になり、天文二十三年(1554年)彦五郎は明確に清須織田家の敵になった義統を殺す事を決意します。

 

武衛家の斯波氏の屋敷には小規模とはいえ屈強な親衛隊が存在していました。そこで彦五郎は義統の息子斯波義銀(しばよしかね)が、多くの供を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き小守護代・坂井大膳(さかいたいぜん)、腹心の織田三位(おださんみ)河尻左馬助(かわじりさまのすけ)川原兵助(かわはらひょうすけ)らとともに守護邸に攻め入りました。

 

斯波屋敷の守りは、(うたい)何阿弥(なにあみ)という同胞衆(どうほうしゅう)、それに森刑部(ぎょうぶ)兄弟、裏口には柘植宗花(つげむねはな)という僅かな人数だけでしたが、彼らは猛奮戦して清須方の兵を斬りまくります。

 

恐れた清須方は、屋敷の四方の塀から弓衆に散々に矢を射かけさせたので、斯波方は抵抗を諦めて屋敷に火を掛け、一門、家臣、数十人が切腹して果てました。こうして、斯波義統は42年の生涯を閉じたのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

父が殺された事を知った斯波義銀は、着の身着のままで家臣団と共に那古野城(なごやじょう)の織田信長を頼ります。この事は信長の大きな追い風になりました。元々、清須織田家は織田弾正忠家の本家筋にあり、このまま事を構えるのは主殺しと取られる恐れがあります。

 

しかし、その清須織田家が尾張の国人が等しく仰ぐ守護の斯波義統を殺害した事で、織田彦五郎は主君殺しの大逆人となり、信長に清須織田家を滅ぼす大義名分が転がり込んできました。

 

信長がすかさず大逆人織田彦五郎討伐の軍を興すと、斯波家恩顧の尾張の国人衆は信長に味方し、僅か数か月の間に清須織田家は滅亡したのです。これは尾張統一を進める信長には、大きなプラスとなりました。

 

参考文献:現代語訳 信長公記

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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