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この記事の目次
袁紹ってどうして曹操に負けたの?
さてここまで言ってくるとどうしてそんな袁紹が曹操に負けたのか?
どうして袁紹の家は滅んでしまったのか?
そんな疑問点が浮かんでくることでしょう。個人的には一番大きいのは油断であると思います。曹操は当時、袁紹に比べるとかなり弱小であった、そんな油断が袁紹にあったのでしょう。
また勘違いされる方がたまにいますが、官渡の戦いは簡単な曹操と袁紹の戦いではなく、曹操陣営が必死に各所で小さな勝利をもぎ取り続け、
最終的に兵糧庫を攻撃できたことで何とか勝利できた奇跡のような戦なのです。決して袁紹が無能だったという訳ではありません。
強者の油断
実際に当初、戦力差によってどんどん曹操は追い込まれていっています。むしろ勝ちすぎたからこそ油断を産み、敗北を産んでしまったのでしょう。この戦いとちょっと比較したくなるのが赤壁での曹操の大敗ですね。
この時だって曹操は敗北するなどとは思ってはいないはずです。しかし官渡の袁紹も、赤壁の曹操と同じく大敗したもののまだ死んではいません。そう、ここでも袁紹は大敗を乗り越えて再び曹操と戦うべく態勢を立て直していたのです。
致命的な敗北
しかし態勢を立て直している最中に、よりによって袁紹は病死。そしてこの時に全ての命運が付きたのでしょう。そう、筆者の考える個人的な袁紹の敗北は
息子たちの内輪もめです。もちろん袁紹の育て方に問題があった、後継者問題をはっきりさせていなかった、これは袁紹の失敗と言えますが、個人的には袁家を終了させたのは袁紹というよりも「袁紹の息子たちの致命的な内輪もめ」があると思ってしまうのですが……どうでしょうかね。
三国志ライター センのひとりごと
劉表がある意味で最高のタイミングで死んだなら、袁紹は最悪のタイミングで死んだと言えるでしょう。この時にもしも袁紹が死なないでいたならば、三国志はどうなったでしょうか。筆者は官渡の失敗を振り返ってからまた盛り返していく袁紹も有り得ると思うのですが、皆さんはどう思いますか?
参考文献:魏書袁紹伝 公孫瓚伝に引く「典略」
献帝春秋
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