荀攸は官渡の戦いの真の立役者はだった!正史『三国志』から発覚!?


 

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荀攸

 

荀攸(じゅんゆう)曹操(そうそう)の軍師です。後漢(25年~220年)から三国時代(220年~280年)にかけて多くの知識人を輩出した豫州潁川郡の名門「荀氏」の出身です。

 

荀攸と荀彧

 

親族には荀彧(じゅんいく)がいます。荀彧より年長ですが、家系図では従子(おい)という扱いになっています。

 

荀攸と曹操

 

荀攸は荀彧がいるためなのか、どうしても影が薄い印象があります。ただし、史実の彼は曹操に助言をして活躍をしています。そこで今回は正史『三国志』をもとに荀攸の生涯について解説します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操に仕える荀攸

献帝を保護する曹操

 

荀攸が曹操の軍師となったのは曹操が献帝(けんてい)を保護した建安元年(196年)ごろです。曹操は以前から荀攸の名前は知っていたので、呼んで話し合ってみたところ才能があると分かり荀彧と鐘繇(しょうよう)に向かって「荀攸の才能は本物だ。私と彼が事を計れば、天下に何の憂いがあるだろうか」と言いました。

 

荀攸

 

余談ですが鐘繇は荀彧と荀攸の親族です。荀彧と荀攸の故郷である豫州潁川郡は、知識人同士での婚姻関係が当たり前のように行われていました。荀攸の出仕はおそらく荀彧と鐘繇のツテと考えられます。

 

張繍

 

さて、出仕した荀攸の最初の仕事は建安3年(198年)の張繍(ちょうしゅう
)
征伐です。この時期、南陽の張繍と荊州の劉表(りゅうひょう)は手を握っており強敵でした。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

その時荀攸は、「張繍と劉表は助け合っているから強いのです。しかし、張繍は兵糧を劉表に頼っています。もし劉表がそれを出来なくなったら、勝手に仲違いします」とコメント。さらに荀攸は出陣を見合わせて、張繍を味方に引き入れることも提案します。確かにこれなら曹操軍に無駄な被害が出ることがありません。

 

荀攸と曹操

 

だが曹操はその意見を無視して出陣を決行します。やはり荀攸に才能があると言っても、戦もしたことがない人から言われるのは曹操もムッときたのではないでしょうか?

 

さて、出陣の結果は・・・・・・残念ながら敗北に終わりました。

「君の意見を聞かなかったのが間違いだった」と帰ってきた曹操は荀攸に謝罪しました。この時から、曹操は荀攸の提案は素直に受け入れます。

 

顔良討伐

官渡の戦い 騎馬兵

 

建安5年(200年)に曹操と袁紹(えんしょう)は天下の覇権を争います。まずは前哨戦として白馬で戦いました。白馬に駐屯していた曹操軍の劉延(りゅうえん)は袁紹軍の顔良(がんりょう)郭図(かくと
)
淳于瓊(じゅんうけい)に包囲されます。戦いの前の会議で敗北ムードが曹操軍にはただよっていました。

 

荀攸

 

ところが荀攸は慌てません。「我々は兵力が少ないので、まともにぶつかっても勝てないのは分かります。ここは袁紹軍を分散させましょう」と提案します

 

漢の顔良(がんりょう)

 

顔良(がんりょう)は手強いが偏狭であることから総大将として不向きでした。そのため補佐役として郭図と淳于瓊がついていたのです。

 

于禁

 

曹操は于禁(うきん)楽進(がくしん)に命じると郭図と淳于瓊の相手をさせて、顔良から離してしまいます。おかげで顔良は孤立して、ポツンとなってしまいました。そのスキに曹操軍の先鋒である張遼と関羽が顔良を斬り捨てました。顔良討伐となると、関羽の功績が目立ちますが裏では荀攸の活躍があったのです。

 

許攸を信じた荀攸

荀攸

 

さてその後、曹操と袁紹は官渡で戦うことになりましたが決着がつかずに膠着状態となりました。それどころか、曹操軍の兵糧があと1か月も持たない状況に陥って曹操は絶体絶命のピンチ!

 

許攸 兵糧のありか教えますひひひ

 

そんな時に袁紹配下の許攸が投降してきました。許攸(きょゆう
)
はかつて袁紹と一緒に、「奔走の友」(ピンチの時に駆け付ける仲間)の盟約を結ぶほどの仲でした。

 

だが性格が良いとは言えません。特に金銭面に関しては異常な執着心があり、その点は袁術(えんじゅつ)からも指摘を受けていました。許攸は金銭面では汚職をしていたらしく、そこを袁紹配下の審配に突かれてしまいます。袁紹に対して言い訳が出来ないと悟った許攸は急いで曹操のもとに向かったのです。普通に考えたら許攸が悪いのは一目瞭然。

 

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

許攸は袁紹軍の兵糧が烏巣に集結していることを曹操に密告して、そこを襲撃することを提案しました。ところが、曹操軍の将軍のほとんどが許攸の性格を知っていたので彼の話を信じません。

 

荀攸

 

しかし、荀攸は信じてあげました。その理由について正史は何も記していませんが、おそらく表情や動作からウソでないと思ったのでしょう。荀攸と許攸を信じた曹操は烏巣に行くと確かに兵糧庫があったので奇襲を仕掛けます。

 

兵糧不足に苦しむ袁紹

 

この奇襲により官渡の戦いは、ほぼ決着がついて曹操軍の勝利に終わりました。官渡の戦いは許攸の投降に注目が行きますが、彼を受け入れた荀攸にも注目しなければいけません。

 

三国志ライター 晃の独り言 社会人の鑑である荀攸

三国志ライター 晃

 

荀攸はその後も曹操に従っていきますが、建安19年(214年)に58年の生涯を閉じました。曹操は荀攸のことを話すたびに涙を流したそうです。

 

荀攸

 

荀攸は社会人としてのマナーをしっかりと心得ている人物でした。かつて、親族が冀州平定のことについて尋ねた時に、自分の功績のことについて全く話さずに、はぐらかしました。

 

このため彼の発言や功績について詳細に知っている者は、親族や従軍した兵士でさえもいなかったようです。昨今、勤務している会社の内容を知人に暴露したり、ネットにさらしたりする行為が目立ちますが、荀攸のような人物を見習うべきかもしれません。

 

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