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今川氏真は日本の劉禅だった?
名だたる君主の子として生を受けてその家督を継ぐも、自分の代でその家を滅亡させてしまい、流浪の後半生を送った今川氏真。その生き様はどこか、劉備亡き後、蜀の皇帝に即位しながら、結局その蜀を失ったあの劉禅にオーバーラップするものがあります。
劉禅にとって、魏と呉というあまりに強大な敵が存在したように、今川氏真の周囲には武田信玄や織田信長など、戦国時代トップクラスのいわば「チート級」の武将がいました。そんな状況を鑑みると、氏真の代で戦国武将の名門である今川家が事実上の滅亡に追いやられても致し方なかったと見ることもできるでしょう。
今川氏真と劉禅、二人が時空を超えて出会うことがあったら、もしかすると互いに意気投合したかもしれませんね。
「貴族趣味」ばかりがクローズアップされがちで、「戦国三大愚人」の内の一人と目されることもある今川氏真ですが、結果的に彼は徳川家康の庇護を得て、77歳で人生を全うするまで生き抜いています。77歳は当時の平均寿命を考えるとかなり長生きしたと言える年齢です。江戸時代には今川家は中川家と家名を変え、氏真の子孫は江戸幕府の儀式・典礼を司る役職である「高家」として、代々の将軍に仕えました。明日の命をもしれぬ戦国時代を生き抜き、戦国時代の後も家名を存続させた今川氏真は、ある意味で戦国レースの完走者であったかもしれません。
HMR隊長の独り言
劉禅と相通じる生き方をしたと言える今川氏真ですが、その子孫の末路は大きく違いました。蜀滅亡後、魏において安楽公に封じられた劉禅ですが、彼の子孫はその後、異民族の反乱に巻き込まれてほぼ皆殺しの憂き目を見ています。今川家の行く末とは非常に対照的であるのが、興味深いですね。
HMRでは、これからも戦国時代のちょっと「アレ」な人々を紹介していきます。お楽しみに!!
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