明智光秀の野望を打ち砕いた羽柴秀吉の電撃撤退中国大返し。これにより明智光秀を山崎の戦いで討ち破った秀吉は天下人への階段を最短距離で駆け抜ける事になります。
しかし考えてみると、急に和睦し退却を開始した秀吉に毛利氏は不審感を抱かなかったのでしょうか?
実はこの頃、すでに毛利は秀吉に敗北していたという説があるのです。
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安国寺恵瓊ガクブルの秀吉の調略!
いまだ、その全貌が謎に包まれた本能寺の変。ところがその当時、中国地方の情勢の一部始終をリアルタイムで目撃していた毛利氏側の武将がいました。その名を玉木吉保と言い、彼は後年、この時の様子を自叙伝「身自鏡」に克明に記録していたのです。
羽柴筑前守秀吉は、密かに毛利家の外交顧問、安国寺恵瓊を呼び出して、
面白いモノを見せてやろうと言うや、毛利方の部将が秀吉に内応する事を約束した署名入りの文書を大量に床に投げ出した。人数の多さに恵瓊は肝を潰した。秀吉はそれを見て、わしの内応に応じなかった者は5人内外よ、空前絶後の中国平定の秘策だろうが?と嘯くと恵瓊の膝の震えは止まらなくなった。
これは、羽柴秀吉が調略により、かなりの数の毛利方の部将から寝返りの約束を取り付けた事を示唆する歴史の一コマです。大勢いる毛利家の家中から内応に応じないのは、5人前後という秀吉の言葉に、敗北を予感した安国寺恵瓊は膝が震え出したと書いています。
毛利氏重臣の内応は事実
この話を聞いて、秀吉の生涯に少し詳しい人なら、秀吉のいつもの口から出まかせではないかと思ったのではないでしょうか?確かに秀吉はハッタリの名人で、本能寺の変後にも信長様は生きているので一安心というデマの文書を敵味方に送り、情報攪乱を謀っています。
しかし、僅か5人は大袈裟としても、この時点で羽柴秀吉に寝返ろうとした毛利方の部将は何名か確認されています。例えば備中高松城の至近にある日幡城を預かる上原元将は、毛利元就の次女を娶る重臣でありながら本能寺の変の直前に離反しています。
さらに深刻なのは、毛利氏の水軍への調略であり、小早川孝景の重臣、乃美宗勝・元信に発せられた文書には、毛利氏を裏切ってくれれば、安芸・周防・長門三カ国と黄金500枚を褒美にすると破格の待遇を提示し、宗勝がダメでも元信だけでもよいと記しており、乗り気になった元信を兄の宗勝は幽閉したそうです。
また、村上水軍の頭目の村上武吉や元吉にも、それぞれ天正10年4月に織田家に忠節を尽くすように指令していて、それ以前から元吉と秀吉には外交のパイプがある事が確認でき、秀吉の言っている事は、まんざらハッタリばかりでもないようです。
秀吉は本能寺の変の勃発を予期していた?
海千山千の外交僧、安国寺恵瓊をガクブルにしたのは毛利氏部将の内応の多さばかりではありません。身自鏡には、さらにこの後、本能寺の変についての記録があるのです。
羽柴筑前曰く、毛利輝元殿の謀が深かったお陰で、信長公はすでに命が絶えてしまいました。こうなっては仕方なし、覚悟の上は御三家(毛利・吉川・小早川)と和睦して天下に上り明智めを討ち果たして、信長公の恩義に報いるまでです。恵瓊殿、私の考えに同意して下さいますな?かくして、神仏に誓い誓約書を交わした。
下線を引いた毛利輝元の謀が深いとは、石谷文書による、つまり長宗我部元親が毛利領の備後鞆の浦に御所を置いていた足利義昭を通じて毛利氏と同盟構築に動き、それに関して、長宗我部との外交チャンネルを持っていた明智光秀が一枚噛んでいるとも取れます。
つまり羽柴秀吉は恵瓊に、お前達が足利義昭を仲介して明智と組んで信長を討ったのはもう想定内だからな、すでに備えはしてあるんだから、オカシな考えは起こすなよ?このように匂わせたとも考えられます。
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