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この記事の目次
内応と本能寺の変対策に毛利氏は敗北した
安国寺恵瓊は、秀吉の調略による内応者の多さ、そして、本能寺の変のカラクリまでお見通しの秀吉の情報収集能力から、明智光秀は秀吉には勝てず、信長の後の覇権は羽柴秀吉が握ると予感したのではないでしょうか?
ならば、ここで和睦交渉を渋り、後の天下人に悪い印象を与えるよりは、毛利家の領地を五カ国割譲し、備中高松城主清水宗治の切腹という厳しい条件でも飲む方が、今後の為には得策であると、、、
実際、強いてまで羽柴軍を追撃しようとしても、至近の備前岡山城には宇喜多氏が、それを突破できたとしても、伯耆羽衣石城の南条氏に背後を突かれる恐れもあります。もちろん、それ以前に追撃軍から内応が出て、下手をすると挟撃されて全滅という可能性もなくはないのです。
本来であれば、鞆の浦の足利義昭と通じた明智光秀と和睦して領地の保全を図りたい所ではありますが、この場で秀吉の申し出を蹴るのは安国寺恵瓊としても毛利氏としても取りたくない判断でした。
毛利氏は天下が欲しくないの?
また、ここでリスクを取り羽柴秀吉を打ち倒して、さらに京都の明智光秀を討って足利義昭を奉じ毛利氏の天下統一という野心はなかったの?という疑問を持つ方もいるでしょうが、別に全ての戦国大名が京都を目指し天下を狙っていたわけではありません。
というより、全国支配を考えていた戦国大名の方が遥かに少なく、大半の戦国大名は、ある程度領地を拡げたら、室町将軍なり天皇から所領を安堵してもらい、相応の官位を受けて、それを子々孫々受け継げれば文句はなかったのです。
武士の基本は一所懸命ですから、一族郎党が食べていける土地があり、生活が安定さえすれば、それを守るのに命を張る事はあれど、さらに命をかけて他所の土地まで取りに行こうとは考えないものでした。
毛利氏は、九州博多を落として海外交易の拠点を得ようと大友氏と抗争してはいましたが、、別に上洛して、今度は東の大名とドンパチしようとまでは思っていなかったと考えていいでしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
身自鏡は、元和3年(1617年)に成立したもので、本能寺の変のリアルタイムな史料ではなく、玉木吉保が過去の事を思い出しつつ、リライトも含めて書いたものと考えられます。
だとしても、本能寺の変を毛利方から見た同時代人の記録として注目に値するのではないでしょうか?
もし、秀吉がかなりの数の毛利方の部将を内応させ、さらに本能寺の勃発を予期しつつ信長没後に備えていたとしたら、あまりにチート過ぎて光秀は逆立ちしても勝てないんじゃないかと思えてきますね。
参考文献:戦国時代を読み解く新視点 歴史街道編集部 PHP新書
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