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この記事の目次
能登曾々木の頭振の正体
もう一つ、江戸時代の能登曾々木のケースについて紹介します。ここでは、延宝9年(1681年)の文書で四軒の頭振(水呑み百姓)が非常に飢えているので、御救い米を頂きたいと書いた願書が出ています。
これだけみると、貧しい農民が飢饉に苦しんでいるように見えますが、では、この四軒の頭振がどういう家かを調べてみると、一軒の頭振は船を二艘も所有し塩の売買をする豊かな頭振であった事が分かってきました。
元々、曾々木自体が製塩と廻船を生業としている土地であり、金銭的には非常に恵まれた土地なのです。しかし、このような土地は農産物を生産できないので、飢饉になると穀物の価格が暴騰して購入できなくなり、飢えてお上にお救い米を求めるより仕方がなくなったという事が分かります。
鎌倉時代を契機に日本で都市化が進行した
では、翻ってどうして鎌倉時代から飢饉が目立つようになったか考えてみましょう。これは、甲斐郡内の吉田や能登の曽々木のように、農業以外で生計を立てる都市化した地域がポツポツと出始めた事を意味しているのではないでしょうか?
このような都市は、銭を直接に扱うので作物を換金しないとお金が手に入らない農民よりも、相対的に裕福でしたが、同時に食糧を他所に頼るという脆弱なインフラのせいで、凶作が起きると農村以上に被害が大きく、政府に穀物を頼るという事態に陥ったのです。
つまり、日本の人口が古来から江戸時代まで99%が農民であるかのような考えは、誤りである可能性が高いのです。
日本史ライターkawausoの独り言
実際には食糧を造っている農家がそうそう飢えるものではない事は、大東亜戦争終結後の戦後の食糧買い出しの映像を見ると納得できると思います。インフレで貨幣が通用しない中、都市部に住む人々が、着物や貴金属や骨とう品など銘々の財産を持ち満員の汽車に鈴なりになっている映像を見ると、あれほどの食糧難民を農村が受け入れる力がある事に驚きます。
今でも、多くの食糧を輸入に頼るなど都市部が多い日本は食糧インフラが脆弱であり、農村がどんどん減少している現状は飢饉が決して過去の遺物でない事を私達に告げています。
参考文献:日本の歴史をよみなおす(全)ちくま学芸文庫
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