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この記事の目次
藩主の家来もシティーボーイ
藩主が江戸生まれなら、当然、江戸で仕える彼の家臣も江戸生まれでした。肥前松浦家の史料には「江戸詰めは江戸生まれの新参者が多く藩主は器量良しを好むので容姿端麗な者が多いが、彼らは国元に行く事を嫌がる」と述べています。
つまり、参勤交代では大名は江戸に来る事が故郷に帰る事であり、国元に帰るのがよく知らない土地に向かう事でテンションが下がる逆転現象が起きたのです。
さらに、国元には江戸を知らない自分の家臣がいて、よく分からない国元の習慣で政治が行われ、下手をすると、あまり言葉も通じないかも知れません。しかも、一年すれば、また江戸に帰るわけであり、必然的に、そんなよく知らない国元の政治に大名はあまり熱心ではなくなり、政治は国元の家臣がやるようになるのも無理からぬことでしょう。
相矛盾する参勤交代
国元から出る事がない地元の家臣にとって参勤交代の費用は頭の痛い問題だったでしょうし、逆に江戸に帰りたい大名にとっては、心待ちにするものだったのでしょう。これでは、どうしても大名や江戸詰めの家臣と対立が生じるわけで藩を一枚岩にするのは、難しい事でした。もしかすると、徳川家康は、こういう効果も狙って正室と嫡子を江戸に留めておくという制度を造ったのかも知れませんね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
参勤交代は藩に過重な負担を押し付ける制度で、島津久光が上洛して江戸幕府に突きつけた文久の改革にも参勤交代を緩和して、3年に1度にし滞在期間も100日にするという一文があります。これを契機に参勤交代は二度と復活しませんでした。
ちなみに、島津久光は嫡男ではなくずっと薩摩で生まれ育った地五郎(田舎者)で、藩主となった息子の島津忠義の後見として江戸に上ったのですが、なかなか訛りが酷かったようです。
参考文献:歴史人4月号 日本史の謎100
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