こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
浜松を去った秀吉は尾張を目指す
松下は慈悲のある人で、それが秀吉の仕業ではない事は分かってくれていました。しかし、城主としては、地元の人間である草履取りのアホ連中全てをクビにし秀吉を庇うというわけにもいかなかったのです。
そこで、「お前は余所者であるからこのような目に遭うのだ。不憫だが本国に帰れ」と永楽銭30疋を路銀として暇を出し、秀吉もそれを受け入れました。
こうして、16歳から18歳まで浜松にいた秀吉は三河を去り、当時勢力を伸ばしつつあった織田信長に仕えて出世街道を驀進していくのです。やがて、この引間城は落城させられ、キサは命からがらという形で落ち延びていきます。
この時に城を落としたのは徳川家康であり、彼は引間城を浜松城として増築していきました。奇しくも浜松は秀吉と家康という二人の天下人が過ごした履歴を持つパワースポットだったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
織田信長の配下時代の秀吉はハゲネズミでしたが、それ以前の浜松で松下氏に仕えていた秀吉は紛れもなくサルでした。有能だった秀吉ですが、つまらん連中の嫉妬心により追放される事になります。ですが、世の中はよくしたもので、浜松を追放された事で、秀吉は信長に邂逅できたので、必要な経験の一つだったのでしょう。
参考文献:日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで 中公新書
関連記事:【意外】明智光秀は出世競争で秀吉に勝っていたってホント?