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西暦1431年5月30日ジャンヌダルク殉教、19歳
しかし、どうしても火刑でジャンヌを処刑したいイングランドは、二度と男装をしないというジャンヌの誓いを破らせようと、大男にジャンヌをレイプさせようとし、さらに一着しかないドレスを盗ませ、ジャンヌが男装せずにはいられないように仕向け、これにより火刑を宣告執行したのです。西暦1431年5月30日ジャンヌダルク殉教、19歳でした。
イングランドは火あぶりにして黒焦げになったジャンヌを大衆の前に晒します。理由は、ジャンヌは死んでいない逃げのびたという噂を出させない為でした。
こうしてイングランドは、ジャンヌが死んだ事を大衆に確認させ黒焦げの遺体の周辺に薪を積み上げて灰になるまで焼き続け、その灰をセーヌ川に流しました。これはジャンヌの遺体の一部でも持ち去られて聖遺物になる事を阻止する為でした。
何故ジャンヌダルクは救国の英雄なのか?
異端者として火あぶりにされたジャンヌダルクですが、1456年7月7日、死後25年で復権裁判が行われ異端審問の判決は完全に覆され名誉を回復しました。その後のジャンヌ・ダルクは、特にナポレオン1世の時代から思想信条の違いを超え、常にフランス救国の英雄として尊敬され崇拝されるようになります。
大きな理由は、ジャンヌが祖国フランスを救えという神の声を聴いたという事です。英仏百年戦争の時代、フランスに国王はいても形式的なもので、各地には軍事力と領地の統治権を持つ諸侯が割拠する封建体制でした。
だからこそ、フランスは一枚岩とは言い難く、フランドル地方やブルゴーニュ大公国などはイングランドのヘンリー6世を支持し、バロア朝のシャルル7世に敵対したのです。その中でジャンヌはバロア朝を救うのではなくフランスを救えという神の啓示を受け、どこまでもフランスからイングランドを追い出す為に戦います。
つまり、ジャンヌの戦いはフランスを国民国家と見做した愛国心に根差した戦いだったのです。ナポレオン1世の時代のフランスは国民国家であり、ジャンヌのフランスを救えというスローガンは、フランス人にすんなり受け入れられる言葉になっていました。だからこそフランスが外敵の侵入を受けた時には、何度もジャンヌダルクが呼び起こされ、フランス人を団結させるアイコンになったのでしょう。
西洋史ライターkawausoの独り言
しかし、ジャンヌダルクの運命の暗転は象徴的です。
彼女は「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをノートルダム大聖堂のあるランスに連れて行き王位に就かしめよ」と神の啓示を受けますが、確かにそこまでは、連戦連勝で全く負ける様子がありませんでした。
ところがシャルル7世の戴冠後は、コンピエーニュの戦いで、あっさりとブルゴーニュ大公軍に捕えられイングランドに売り飛ばされ、異端審問で火あぶりにされているのです。もしかすると、シャルル7世を戴冠させるまでがジャンヌの仕事で、そこで引退して貴族として暮らしていたら、彼女は19歳という若すぎる死を迎えなくて済んだかも知れません。
でも激烈な彼女の性格から考えて、それは難しかったでしょうね。
文責:kawauso
参照:Wikipedia
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