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麒麟児の晩年
姜維の登場は華々しいものです。味方に疑われて孤立させられるもの、諸葛亮によってその才能を見出されて蜀に、敵国に受け入れられます。ですがその登場から一転、いや、既に登場から不穏さを醸し出していたかのように、見出してくれた諸葛亮は亡くなり、北伐を繰り返すも上手くいかず、果てに国はかつての母国に降伏。
未だ諦めきれなかった姜維は鍾会を利用して反乱を起こそうとするも、失敗してしまいました。思えば伏した龍も、鳳凰の雛も、そして麒麟の子も、全て蜀に集まったにも関わらずその才能を十分に発揮できないまま亡くなったというのは偶然でしょうかね……?
麒麟児と呼ばれた者
もう一度麒麟児という言葉に戻りますが、これは言い換えれば「若い頃は凄かった」となります。歴史の人物に言及している以上ある程度は仕方のないことですが、この麒麟児という言葉にはその未来はあまりなく、多くの麒麟児はその才能を発揮できないまま亡くなることが多いのです。なぜならば、麒麟児が成長して優秀な人物となり、大望を抱いて達成したとなれば、それは最早麒麟児ではありません。
おそらくもっと別の言葉で称されることでしょう。このため麒麟児という言葉を見ると、何だかそこで止まってしまったかのようなもの悲しさを筆者は感じます。
麒麟児の悲哀
少し哀しい話をしてしまいましたが、姜維が麒麟児であったことは変わらず、その優秀さもまた不変のものでしょう。そしてその麒麟児ですら晩年の蜀を救うことができなかったと思うと、その悲哀は胸を突きます。もちろん麒麟児という言葉自体を謗っている訳ではありませんが、筆者の中の「麒麟児」という言葉に感じる感情を述べさせて頂きました。
更に言うなら、筆者的には姜維よりも孫策よりも、諸葛恪のことを麒麟児と呼びたいですね!
三国志ライター センのひとりごと
因みに「昔麒麟児」という言葉があります。こちらも褒め言葉であり、麒麟児と呼ばれていた子供が順調に成長して大事を成し遂げた人物に対して使わるようです。これを知った時に感じたのが、麒麟児はあくまで麒麟児を脱出できなかったのだな、という思いでした。しかしその悲哀もまた、人々が麒麟児たちに感じていた思いなのかもしれませんね。
参考文献:蜀書姜維伝
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