古今亭志ん生とはどんな人?天才落語家の生涯

2020年6月5日


 

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マラソン日本代表として走る中村勘九郎 いだてん

 

2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」オリムピック(はなし)でも登場した古今亭志ん生(ここんていしんしょう)、青年期を森山未來(もりやまみらい)、晩年をビートたけしが演じていました。

週刊誌を楽しみにするkawauso様

 

kawausoは、いだてんが大好きで満州で志ん生が演じた「富久(とみきゅう)」のシーンでは泣けて仕方なかったのですが、古今亭志ん生は噺家(はなしか)である以外にはあまり知られていない事もあろうかと思います。そこで今回は、古今亭志ん生について、分かりやすく解説してみました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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神田生まれで放蕩無頼の少年時代

落語家

 

古今亭志ん生は本名を美濃部孝蔵と言い、明治23年(1890年)東京市神田に生まれました。家は元旗本だったようですが明治維新(めいじいしん)で地位を失い支給金も父の代で使い果たし志ん生の少年期は貧乏暮らしでした。しかし、寄席が好きだった父に連れられ駄菓子目当てに寄席に出入りするようになります。

 

明治34年、小学校卒業間近な時、素行が悪いために退学になり奉公に出されますが、どこに行っても長続きせずすぐに逃げ帰るを繰り返し挙句(あげく)には博打(ばくち)や酒に手を出し放蕩生活を続けるようになり家出。

 

以来、二度と実家に寄り付かず親や兄弟の死に目にもあっていません。とはいえ、放蕩生活(ほうとうせいかつ)をしていても食わねばならないので、この頃、芸事に興味を持ち天狗連(てんぐれん)というセミプロの芸人集団に出入りするようになります。

 



借金がかさみ夜逃げでなめくじ長屋へ

 

明治43年頃、志ん生は2代目三遊亭小圓朝(さんゆうていこえんちょう)に入門し、三遊亭朝太(さんゆうていちょうた)の前座名を名乗ります。

 

さらに、大正5年から6年頃に三遊亭圓菊(さんゆうていえんぎく)を名乗り2つ目に昇進し、大正7年4代目古今亭志ん生門下に移籍して金原亭馬太郎(きんぱらていうまたろう)に改名し、大正10年9月に金原亭馬(きんぱらていば)きんを名乗り真打(しんうち)に昇進しました。12年間で真打まで昇進はかなり早いですね。

 

大正11年11月に清水りんと結婚、以来、昭和3年までに、長女美津子(みつこ)、次女喜美子(きみこ)、長男(きよし)が誕生しますが、昭和3年、大酒のみの博打打ちの破綻生活が祟り、借金して笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越します。

 

長女美津子がりんのお腹にいる頃、関東大震災が発生、志ん生はりんを守るどころか、「震災で酒が全部ダメになる前に飲んでくる」と酒屋に飛び出していきます。

 

こんな時だ!お代はいらねえ好きなだけ飲んでいきなという酒屋の主人の好意に甘えて、一升以上のみ干し、泥酔して帰宅、呆れたりんに散々に怒鳴られたと言われています。筋金入りのダメ人間です。

 

古代オリンピック

 

落語界から出戻り2回の荒れ放題

 

極貧で芸も荒れていたのか、当時の実力者だった5代目三升家小勝(みますやこかつ)(たて)突いた事で志ん生は落語界に居場所がなくなり講釈師に転身します。

 

しかし、それでは食えず、謝罪して出戻りし当時人気者だった柳家金語楼(やなぎやきんごろう)の紹介で初代三語楼(さんごろう)門下に移りますが、今度は師匠の羽織を質入れして出禁をくらいます。なんとか詫びを入れて許してもらいますが、真打でも銭座同然の扱いで貧乏は相変わらずでした。

 

当時の志ん生は、腕はあるものの早口で間の取り方が悪く、愛嬌もない世渡り下手で周囲に上手く合わせる力もなく結果として金銭面の苦労を強いられます。その為、この頃の志ん生の身なりは悪く、「死神」、「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席関係者からも軽んじられ、売れない噺家に用はないと公然と言われる始末でした。

 

寄席でも浅い出番しかなく、なりふり構わずに小さな寄席を回り、ようやく食えているという有様で、一部の好事家には認められましたが、まだまだ売れているとはとても言えません。

 

昭和7年志ん生は、再び3代目古今亭志ん馬を名乗ります。落語家になってから20年売れずに苦労した志ん生ですが、この頃ようやく少しずつ売れ始めます。昭和9年9月には、金原亭馬生を襲名、昭和14年にいよいよ5代目古今亭志ん生を襲名しました。

 

実は、古今亭志ん生を名乗った噺家は代々短命で、4代目志ん生も襲名から1年でガンで死ぬほどで皆、縁起が悪いからと志ん生を止めますが、

「どうせ名前はつけなきゃいかんのだし、俺が長生きして志ん生の看板を大きくしてやる」と意に介しませんでした。昭和16年には神田カ月で月例の独演会を開始し客が大勢詰めかける大好評でしたが、当時の客はガラが悪かったようです。

 

空襲中、野外で爆睡したが奇跡的に無傷

徴兵から逃れをようと国外に逃亡を試みる日本人兵

 

昭和16年、12月には大東亜戦争が勃発、昭和19年11月からは東京はB29の空襲にさらされるようになりました。空襲が激しくなった頃、志ん生は漫談家の初代大辻司郎(おおつじしろう)と銀座数寄屋橋(すきやばし)のニュートーキョーで飲み、エビの絵が描いてある大きな土瓶にビールを詰めたものを土産にもらいます。

 

都電で帰宅していると、日本橋付近で空襲に遭遇、志ん生は電車から降ろされてたものの、泥酔していたので逃げる事を諦め、地下鉄入口に腰を下ろします。そこで、ふと、このまま爆弾が落ちて死にでもしたら、もらったビールがもったいない飲んでしまわないと死んでも死にきれないと考えビールを全て飲み干し、このまま寝入ってしまいました。翌朝、奇跡的に志ん生は無傷で帰宅したそうです。

 

いやいやいや、爆弾が盛大に落ちている途中で、野外でビール飲んで寝るなんてスゴイ人もあったもんです。コロナが恐いから飲みに行かないなんて、志ん生には絶対できないでしょうね。

 

 

満州から引き揚げ後人気爆発

 

昭和20年、志ん生は陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)から慰問芸人(いもんげいにん)の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ噺家の6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)、講釈師の国井紫香(くにいしこう)坂野比呂志(さかのひろし)等と共に満州に渡ります。

 

志ん生は満州では酒が飲み放題と聞いて行く事にしたと回顧していますが、実際には依頼を受けての事で、空襲が来るたびにパニックを起こす志ん生に長女が「満州では空襲がない」と説得して行く事にしたのだそうです。パニックになるのも無理ない話で、同年4月に志ん生は空襲による火災で本郷駒込の家を焼け出されていました。

 

満州では東京より物資は豊富で、好きなお酒も飲み放題でしたが、それも同年8月9日までの事でソ連が日ソ不可侵条約を放棄して満州に攻め込むと一転して地獄になります。

 

関東軍は、それ以前に兵力の転出で弱体化して邦人を守る力はなく、多くの邦人が飢えと渇きと病気とソ連兵による殺害で命を落としました。志ん生も6代目三遊亭圓生も日本に帰れず、志ん生も死んだ方がマシとウォッカを飲み干して意識不明になったりしています。

 

満州で地獄の生活を続ける事1年8カ月、昭和22年1月12日に志ん生は、命からがら帰国しました。

すでに国内では死んだと思われていた志ん生の帰国は大きなニュースになり、寄席(よせ)ばかりかラジオ番組出演を多くこなすなど売れっ子になっていきます。満州での苦労が、志ん生の芸に磨きをかけたのだそうです。

 

83歳で大往生

 

60歳を間近にして志ん生の人気は爆発、八方破れで自由な芸風が受けて、8代目桂文楽と並び称されるようになります。ここからが志ん生の全盛期で、昭和32年には落語協会4代目会長に就任。昭和36年には長年の不摂生が祟り、読売巨人軍の優勝祝賀会の講演途中に脳出血で倒れ、3カ月の昏睡(こんすい)状態になって回復しますが半身不随になりました。

 

しかし、それでも講談で使用する釈台(しゃくだい)を前に置き、左手を釈台において高座を勤めています。志ん生は昭和43年まで不自由な体を推して高座に上がり続け、昭和48年、9月21日に自宅で逝去します、享年83でした。長寿だった志ん生は還暦前から大ブレイクし20年以上の人気を保ったのです。

 

芸以外はズボラな志ん生

テレビを視聴するkawauso編集長

 

志ん生の芸風は八方破れに見えますが、それは(おおむ)ね造られたものだったそうです。噺家として60年やってきた志ん生は、若い頃から上手いとは言われたものの、上手いだけで売れないという事実に悩み試行錯誤して、八方破れの志ん生の話芸を産んだのであり、本当にいい加減な噺家なら一時期は売れてもすぐに飽きられたでしょう。

 

志ん生の芸は基本がシッカリしていて、それを無限に変化できるから、八方破れの持ち味が活きたのです。

 

ただ、天才肌らしく好き嫌いが激しい人ではあり、客が気に入らないと芸に身が入らず、時間前に切り上げるなど、高座は出来不出来が激しかったそうですが、それも60年も続けば、あれは志ん生だからと許容されるものになりました。

 

kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

kawausoは噺家ではありませんが、ライターという不安定な商売をしているので、景気の波を受けると収入が不安定になり、そんなときゃ、堅気の仕事をすれば良かったなぁと思う事もあります。

 

でも、どの道そんな生き方が性に合わないので、転職を繰り返しライターとして拾われたようなものですから、落ち込まずにキッパリ諦め脇目も振らずに、食い扶持のライター業だけは志ん生のように手を抜かずに頑張ろうと思います。

文:kawauso

 

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忘年会の価値

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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