呂布と貂蝉の愛を超えた!愛する人のために他国に降伏した呉三桂とは誰?


 

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先日、『はじめての三国志』をご愛読頂いている読者からのご意見「読者の声」を再確認していたら三国時代(220年~280年)だけではなく、他の時代も扱って欲しいという要望が何件か確認されました。

 

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三国志を楽しく語るライター晃様

 

ですので、今回は三国志ネタはお休み。そこで今回は明(1368年~1644年)から清(1644年~1911年)の時代について語ろうと思います。今回取り上げるのは1人の女性のために他国に降伏した呉三桂(ごさんけい)の話です。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

軍人の子として生まれる

 

呉三桂は明の万暦40年(1612年)に生まれました。父は呉襄(ごじょう)錦州(きんしゅう)(現在の遼寧省(りょうねいしょう
)
錦州市)の総司令官です。

 

女真族は辮髪

 

呉襄が総司令官として着任していた頃、北では女真族が暴れていました。女真族(じょしんぞく)は後に清を建国する民族です。さて、成長した呉三桂は父のコネで軍に入り総司令官に抜擢されました。しかしコネで入ったとは思えないほどの実力で次々と女真族を打ち破ります。

 

運命の出会い

 

崇禎16年(1643年)に李自成(りじせい)という人物が率いる農民反乱軍が次々と明軍を倒していきピンチの状況に陥りました。後世、「李自成の乱」と呼ぶ事件です。ビックリした明の第17代皇帝崇禎帝(すうていてい)は、首都防衛のために呉襄を呼び戻します。この時に呉三桂も同行しました。

 

呉三桂はこの時、田弘遇(でんこうぐう)という人物に出会って、屋敷の宴会に招かれて楽しみました。その時に1人の女性が呉三桂の前に姿を現しました。

 

魅惑の美女 陳円円

 

女性は田弘遇の愛人であり陳円円(ちんえんえん)といいました。本名は邢沅(けいげん)といい陳円円は源氏名です。彼女は貧しい農家に生まれて、すぐに叔母の家に預けられたのですが、この叔母が性悪女であり金を稼がせるために彼女を遊郭に売ったのです。

 

美しい女性であったことから、すぐに遊郭のナンバーワンになりました。崇禎15年(1642年)に田弘遇は遊郭に多額の金銭を支払って彼女を自分の愛人にしたのでした。呉三桂が陳円円と出会ったのは1年後です。陳円円に一目ぼれした呉三桂は、田弘遇に大金を支払うことを決意。

 

幸いにも彼はエリートだったので金は持っています。1000両を持ってくると田弘遇し渡しました。田弘遇も普通なら断りますが、大金を持ってこられたら嫌とは言えません。素直に陳円円を呉三桂に渡しました。この時、呉三桂32歳、陳円円は20歳程度だったと推測されています。夫婦としては不思議ではない年齢差です。

 

清への降伏

 

崇禎17年(1644年)になると、清の防衛のために呉三桂は出陣。陳円円を北京に置いていきました。呉三桂は山海関(さんかいかん)(しん)と戦いました。戦闘は呉三桂に有利に動きますが、途中で驚愕の情報が入りました。

 

各地を突破した李自成率いる農民反乱軍が北京を陥落させたのです。逃げた崇禎帝も自殺してしまい、ここに明は滅んだのでした。

 

明は内側から滅ぶというあっけない結末でした・・・・・・困ったのは呉三桂。清と農民反乱軍に挟み撃ちです。どうすればよいか迷いました。その時、さらなる情報が入りました。陳円円が李自成軍の劉宗敏(りゅうそうびん)に捕まったというのです。劉宗敏は李自成軍の武将であり凶悪な人間で有名でした。それを聞いた呉三桂は、もう家族も陳円円も生きていないと思って清に投降する決意を固めました。こうして呉三桂は清に投降します。

【次のページに続きます】

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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