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この記事の目次
運命の宮古湾海戦
土方は宮古湾に停泊している新政府軍軍艦の甲鉄を奪取しようと計画します。奪取方法はアボルタージュ作戦、つまり船を接舷して乗り込み拿捕するという大航海時代のような方法です。
当初、蝦夷共和国は、回天、蟠竜、高雄の3隻で甲鉄奪取に向かう予定でしたが、高雄が暴風雨で機関を損傷、やむなく2隻は宮古湾の隣の山田湾で待機します。
この後、蟠竜は鮫村沖で待機し、回天と高雄と別々でしたが、2隻は目前の甲鉄を奪取する事を決意、時間が掛かるので蟠竜と合流せず、回天はアメリカ国旗、高雄はロシア国旗で甲鉄に近づき、直前で日章旗に付けかえて甲鉄に斬り込むと決めます。
明治2年3月24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かう途上高雄が再び機関故障を起こします。ただし航行は可能であったので作戦を変更し、まず回天が甲鉄に接舷して先制攻撃をし、高雄が途中で参戦して残りの艦船を砲撃すると作戦変更します。ところが高雄の機関の不調は相変わらずで、焦れた回天は高雄を待たずに単独で宮古湾への突入を敢行しました。
舷側の高さが合わない!痛恨のミス
この時蝦夷共和国サイドには幸運な事に新政府軍艦隊は機関の火を落として落としていました。また、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われず、すんなりと近づけます。甲鉄に接近した回天は作戦通りアメリカ国旗を下ろし、すぐさま日章旗を掲げて接舷。その時、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が鳴り響きます。
しかし奇襲には成功したものの、回天は舷側に水車が飛び出した旧式の外輪船で横づけが不可能でした。
ええ!、それはもっと前に分かりそうな事のような・・その為、回天艦長の甲賀源吾の必死の操舵も空しく、回天の船首が甲鉄の左舷に突っ込んで乗り上げる形になります。
さらに回天は大型の非装甲軍艦であるのに対し、甲鉄は小型で重い装甲をまとっているため舷側が低く、回天の艦首とでは3メートルもの高さがついてしまいました。やっぱり高雄を待っていれば、、なんて今さら言っても仕方ありません。
回天からは先発隊が甲鉄の甲板に怪我覚悟で飛び降り、斬り込んでいきますが、回天の細い船首からでは乗り移る人数が限られました。おまけに、飛び降りたポイントはガトリング砲など強力な武器が装備されており乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、回天側からは負傷者が続出しました。
もたつく間に、春日以外の新政府軍艦船も戦闘準備が整い、回天は敵艦隊に集中砲撃を浴びハチの巣になります。回天艦長甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれても、なお指揮を執りますが頭を撃ち抜かれて即死。
もう潮時だと、荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら操舵して回天は宮古湾を離脱しました。甲鉄に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は撤退に間に合わず甲鉄に取り残され戦死しました。その間30分だったと言います。回天、蟠竜は砲撃を繰り返しながら何とか新政府軍を振り切りますが、問題は高雄で機関の故障で速力が出ず甲鉄と春日に補足されます。
高雄艦長、古川節蔵以下95名の乗組員はやむなく田野畑村付近に上陸し、高雄を焼いたのちに盛岡藩に投降しました。こうして、甲鉄奪還作戦は、高雄一隻が自沈、兵士15名戦死の失敗に終わったのです。土方は生還しましたが、圧倒的に海軍力で不利が確定した今、兵糧攻めを避けられなくなった蝦夷共和国の命運は半分決したようなものでした。
土方歳三の最期
明治2年4月9日、新政府軍が蝦夷地の乙部に上陸、土方は二股口の戦いで新政府軍の進撃に徹底抗戦します。途中、新政府軍はすでに包囲が完了したと思わせる為に鈴を鳴らして土方軍の動揺を誘いますが、土方は本当に包囲したなら鈴を鳴らすような事はしないと見抜いて部下を落ち着かせました。
この頃、土方は部下に自ら酒を振る舞い、酔って軍規を乱しては困るので一杯だけだと冗談口を聞いて部下を落ち着かせました。かつての鬼の副長のイメージは影を潜め、土方は部下に取って、何でも相談できる母のような存在だったようです。
土方隊は士気も結束も高く連戦連勝しますが、もう一つの松前口が破られ退路が断たれる危険が出たので、やむなく二股口を放棄して五稜郭へと帰還しました。明治2年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されます。
この時、元新選組の島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立しました。土方は島田を救出すべく、わずかな兵を率いて出陣。同じ頃、新政府軍艦朝陽丸が味方軍艦の砲撃で撃沈されたのを見て土方は「この機を逃すな」と大喝。箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じ敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告します。
こうして、土方は一本木関門を守備、七重浜より攻め来る新政府軍に対応して馬上で指揮を執りましたが、その乱戦のなか腹部に新政府軍の銃弾を受け落馬しました。
土方の命令によって台場方面に進軍していた大右仲野率いる部隊は一時勢力を盛り返しましたが、必死の指揮も空しく総崩れになり、大野が一本木関門に引き返すと、同じく陸軍奉行添役の安富才助から土方が撃たれたことを知らされ、急いで駆けつけますが土方はすでに死んでいました。享年34歳。
幕末ライターkawausoの独り言
土方歳三にとって、近藤勇が斬首されたのは大きな衝撃だったのでしょうか?
自分が近藤の切腹を止めた結果として、罪人として斬首された近藤、そこから土方は転戦を繰り返し、日本の最果て蝦夷地の五稜郭で死ぬ道を選びました。武士らしく潔く諦めてしまった近藤と、最後までベストを尽くした土方、二人の対照的な最期には考えさせられますね。
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