天下分け目の関ヶ原合戦。拮抗していた戦況を破ったのは、西軍の一角、小早川秀秋の裏切りでした。西軍の総勢80,000人の中で、小早川軍は15,000人。戦力の20%が突然裏切って後ろから襲い掛かってきたわけですから、西軍もひとたまりもありません。
これをもって、合戦の決着が一気についてしまったのでした。この小早川秀秋とその家臣たち、東軍勝利の最大の貢献者といってもいいわけです。よって徳川家からの恩賞は相当に大きいものだったはず!と思いきや、合戦の二年後に秀秋自身が急死し小早川家は断絶、仕えていた家臣たちは浪人として各地へ散り散りにという、哀れな結末を迎えてしまっています。
この扱いのひどさは何なのでしょうか?
裏切るにしても事前の根回しはできていたのでしょうか?
そもそも小早川秀秋はどのような経緯から、裏切りを決意したのでしょうか?
この記事の目次
周囲がくれた幸運なチャンスをことごとく無駄にしてしまった前半生!
そもそもこの小早川秀秋という人物はナニモノなのでしょう?
まず小早川家というのはこの時代における山陽の一大勢力。
ですが秀秋自身は小早川家の血を引いておらず、養子として小早川家に迎えられた人物。彼は、かの豊臣秀吉の奥様(「ねね」という通称でドラマや小説でも有名)の、甥っ子なのです。まだ足軽だった時代の秀吉にとって、ねねとの結婚は格上との身分差婚。
出世のきっかけになった幸運な縁組でした。それゆえ日本の支配者になったあと、秀吉は自分の一族だけでなく妻の一族にも栄華の便宜をと考え、秀秋を小早川家の養子に紹介したようです。現代風に言えば、自分の叔母さんの旦那さんが大企業の社長になった縁で、特に本人の努力才能と関係なく名家の養子に入り、おぼっちゃんとしてチヤホヤ育てられることになったといったところ。
最高にうらやましい境遇のはずなのですが、
・少年のうちから酒の味を覚えてしまい、日々痛飲して暮らしていた
・毛利家から迎えた正室に対しても相当にひどい夫であったらしい、奥様は愛想をつかして実家に帰ってしまった
などなど、悪い意味での「おぼっちゃん」に育ってしまったようです。
一大勢力のリーダーの行動としてはどうか?:関ヶ原でどうすべきかを叔母さんに相談!
このような人物にとって、家康と三成のどちらにつくかの判断は、たいへんなプレッシャーだったようです。そこで秀秋が考えたのは、なんと「自分の叔母さん(秀吉の奥様)に相談に行く」という行動でした。
多数の家臣の命もかかっている判断を、叔母さんに相談するという発想だけでも、名門の当主としてはやや不安な行動ですが、この相談を入れたタイミングというのも、最悪でした。
・石田三成からは「(家康の拠点のひとつである)伏見城攻撃に参加してほしい」という依頼がきていた
・関東にいる家康からは、内通を促す連絡が届いていた。
という状況下で悩んだ秀秋は、京都で酒と魚釣り(!)の日々を過ごしながら考えていましたが、いよいよ伏見城攻撃が目前になり、耐えられずに叔母さんのところを訪問したようです。
「あたしに相談しに来られても、もう伏見城攻撃が始まる直前じゃない!どうするつもりなの!」と、胸の内では「ねね」こと北政所様も困惑したと推測されますが、さすがに肝の座った女性、以下のような冷静なアドバイスをしたと伝えられています。
「ここはうまく立ち回りなさい。もうタイミングとしては伏見城攻撃に参加するしかないのだから、あなたは三成にいったん色よい返事をして、挙兵しなさい。いっぽうで、私も敵味方に働きかけて和睦を訴えます。ここでのらりくらりと時間を稼ぎながら、あなたと私でうまく双方に和睦を働きかけ、戦をやめさせることができれば、それこそ豊臣家のためによいことです」
なるほど、「カタチだけ一度挙兵したものの、戦いは好まず、あくまで家康と三成に和睦をしてほしい立場だった」となれば、たとえ和睦が失敗しても、どちらが勝っても言い訳ができます。賢い!
家康と三成の双方の頭に「?」が浮かんだ日:すべてが裏目に出た伏見城攻撃
ですが残念ながら秀秋には難しい話だったようです。
どうやら
「三成にいったんはよい返事をして挙兵をしつつ、うまく立ち回りなさい」の部分しか頭に入らなかったらしく、
喜んだ秀秋は、
・伏見城攻撃に大軍を率いて意気揚々と参加
・そのいっぽうで家康には「伏見城を攻撃するけど、ポーズだけで、本気じゃないからね」という手紙を送る
・実際の伏見城攻撃では、参加しているだけで積極的には動かないつもり
・、、、でいたのですが、「お前の軍も何かしろよ」と怒られ、後半から突然まじめに参戦し、伏見城を陥落させるという、家康にも三成にも「なんなんだよアイツ?」と悪印象を与える行動をとってしまったのでした。
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