

強者揃いの尾張の武将において、最も強いと言われた人物こそが佐久間盛政です。
佐久間盛政の勇猛は鳴り響いており、信長は上杉謙信への備えとして盛政を配置する程であり、鳥越城の戦いではすでに陥落した二城を猛然と攻め立てて奪還し鬼玄蕃と呼ばれました。そんな鬼の神髄は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた時に発揮されます。
秀吉を唸らせた佐久間盛政の最期とは、どんなものだったのでしょうか?
この記事の目次
尾張御器所に佐久間盛次の子として誕生
佐久間盛政は、天文23年(1554年)尾張国御器所に誕生しました。佐久間軍記によると盛政は身長182㎝もあったとされ真偽の程は不明ですが、当時としてはかなりの巨漢だった事が分かります。
永禄11年(1568年)の対六角承禎戦である観音寺城の戦いで初陣し、元亀元年には越前手筒山城攻め、野洲河原の戦い、天正元年の槙島城の戦いで戦功を挙げます。天正3年(1575年)叔父の柴田勝家が越前一国を与えられた時、信長により勝家の与力に命じられ、柴田軍の先鋒を務めました。
以後は、北陸の対一向一揆戦で大きな功績を挙げ、信長から感状を受けた事もあります。天正4年には、加賀一向一揆に奪取された大聖寺城の救援に成功し、天正5年に越後の上杉謙信が南下すると信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚に砦を築いて在番します。
軍神上杉謙信は、手取川の戦いで織田軍を破った事もある戦上手だったので、それだけ信長は盛政の力を評価していたのでしょう。
落ちた城を奪い返す鬼玄蕃
天正8年、一族の佐久間信盛が信長から折檻状を叩きつけられ高野山へ放逐される事件が起きます。盛政は責任を感じて、自主的に蟄居していましたが、信長は盛政を連座させるつもりはなくすぐに許したと言われています。
トラブルを乗り越えた盛政は、天正8年11月には加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、盛政は初代の城主となり加賀半国の支配権を与えられました。
天正9年、叔父の柴田勝家が京都で信長の馬揃えに参加する為に越前を離れると、その留守をついて上杉景勝が加賀に侵入し白山城を攻め落とします。
留守番だった盛政が救援に駆け付けると、鳥越城と二曲城はすでに城は陥落していましたが、盛政は諦めずに上杉軍に挑みかかりこれを撃破し、二城を奪還してみせました。
この時の盛政の戦いぶりは、信長公記に比類なき高名と書かれ、盛政は官位の玄蕃允に因んで鬼玄蕃と呼ばれるようになります。
賤ヶ岳の戦いでの活躍
天正10年6月2日に本能寺の変が勃発、織田信長は家臣の明智光秀に討たれて横死を遂げます。その頃、佐久間盛政は柴田勝家に従い、上杉方の越中松倉城を攻め落としていましたが、それどころではなくなり撤退。以後は柴田勝家に従いました。
結局、明智光秀は毛利攻めから大急ぎで戻って来た羽柴秀吉によって山崎の合戦で討たれ、信忠の子の三法師を手懐けた秀吉に織田家の主導権は握られます。
柴田勝家は反秀吉派の首魁として対立を深め天正11年、両者は近江国余呉湖畔で対陣しました。羽柴秀吉の軍勢は5万と柴田勝家の3万を大きく上回っていましたが、秀吉の敵は柴田勝家だけではありませんでした。
4月16日、一度は秀吉に降伏した織田信孝が伊勢の滝川一益と結んで再び挙兵、岐阜城下に進出します。これにより、近江、美濃、伊勢の3方面作戦を強いられる事になった秀吉は、美濃に進軍しますが途中揖斐川の氾濫にあい大垣城に入ります。
近江に羽柴秀吉がいない事を、秀吉に寝返った柴田勝豊の家臣から聞いた盛政は、兵力が手薄な今こそ、攻める好機と柴田勝家に進言しました。勝家は深追いしないで命令に従う事を条件に盛政の作戦を許します。
勢いに乗る盛政は、大岩山砦を守る中川清秀を攻撃、清秀は防戦するも耐え切れず戦死し砦は陥落しました。さらに、盛政は隣の黒田官兵衛の部隊を攻撃しますが、黒田部隊は持ちこたえ、佐久間盛政は次に岩崎山に陣取る高山右近を攻撃し右近も退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れました。
この成果を聞いた柴田勝家は盛政に撤退命令を出しますが、なぜか盛政は従わずに前線に居続けました。
前田利家の裏切りで敗北
4月20日、劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始、これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのは時間の問題となります。しかし、この頃、船で琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が部下の反対を押し切って、進路を変更、そのまま海津への上陸を敢行した事で戦局は一転します。
上陸した丹羽長秀の軍勢2000は、撤退を開始していた桑山重晴と鉢合わせし援軍を得た桑山重晴は、再び賤ヶ岳砦を守る為に佐久間盛政の軍勢を蹴散らしました。同日、大垣城にいた秀吉は、大岩山砦等の陣所の落城を知り、ただちに軍を引き返し木ノ本までの52キロを5時間で引き返します。
佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉の本隊に襲撃されますが奮闘、秀吉は盛政を落とせないと判断し、盛政の弟の柴田勝政に攻撃対象を変更、窮地に陥った勝政を柴田勝家が救援する形で両軍は激戦となりました。
ところが、ここで茂山に布陣して柴田勝家についていた前田利家が突如戦線離脱します。これにより後方の守りの陣形が崩れ、前田利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わります。
さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も不利を悟り退却、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到、佐久間盛政は混戦の中で、加賀国に逃げようとしますが途中で越前府中付近の山の中で郷民に捕えられました。
潔い態度を秀吉に賞賛される盛政
命運が尽きた事を知った盛政は、直接秀吉に対面したいので引き渡してくれと郷民に言いました。こうして、引き渡された盛政に浅野長政が「鬼玄蕃とも言われたあなたが何故敗れて自害しないのか」と愚弄しましたが、盛政は
「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げのび、後に大事を為したではないか」と言い返し周囲を唸らせました。
秀吉は、盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く迫りましたが、盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れられず
「好意は忝いが、私が生き延びて秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう、いっそ死罪を申し付けて下さい」と辞退します。
秀吉は盛政の心情を賞賛し、せめて武士の名誉である切腹を命じますが、盛政は敗軍の将であるから斬首を願うとこちらも辞退しました。
そして逆に「願わくば車に乗せて縄目の恥辱を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京まで引き回されれば有難い、さすれば秀吉殿の威光も天下に轟きましょう」と言ってのけたのです。
派手な衣装で斬首された堂々たる最期
これに対し、秀吉は死装束として小袖二重を贈りますが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず「死に装束は戦場での大指物のように思い切り目立った方がよい、あれこそ盛政ぞ!と言われて死にたい」と言い、秀吉に大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望しました。
秀吉は、「最後まで武士の心を忘れない者よ」と感心して望みの小袖を仕立てて与えたそうです。
盛政は願い通りに、京市中を車に乗せられて引き回されますが、音に聞こえた鬼玄蕃を一目見ようと貴族も庶民も男も女も通り道に鈴なり並び鬼玄蕃を見物し、玄蕃は逆に野次馬を睨み返して堂々とした最期でした。
秀吉は最後の最期まで盛政を惜しみ、せめて切腹の名誉を与えようと小刀を密かに盛政に与えていましたが、遂に使う事はありませんでした。引き回しの後に盛政は宇治・槙島に連行され斬首されます。享年30歳でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
佐久間盛政は、堂々たる勇者でありながら武名に執着せず、これでオシマイと知るや、名誉の切腹も求めずに罪人らしく派手に処刑されたいと願い、その通りの最期を遂げました。叔父の柴田勝家も裏表がないすっきりした武将でしたが、叔父に憧れた盛政も敵味方を感心させる立派な武者だったようです。
文:kawauso
関連記事:【麒麟がくる】佐久間信盛はどんな人?退却の名人がしくじった人生
関連記事:美濃大返し炸裂!織田家の覇権をかけた柴田勝家(アゴ)と羽柴秀吉(サル)の戦い


























