正史三国志と三国志演義では、死因が違う武将というのは良くあることです。
三国志演義では壮絶な最期を迎える武将が正史では病死だったり、逆にまだまだ生き残っているはずの武将が途中で戦死していたり、その違いもまた三国志の楽しみ方ですよね。今回はそんな正史と三国志演義での死因の違いの中から、楊脩を見ていきましょう。
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楊脩は正史と演義に若干の違いが残る
楊脩は魏の文官の一人であり、三国志演義では主に曹丕の弟、曹植の教育係のようなイメージを持っている人もいるでしょう。三国志演義では才気煥発であった楊脩ですが、曹操はそんな楊脩の優秀さからくる行動に苛立ちを覚えるようになり、最終的に曹植に後継者になるための入れ知恵をしたことから、曹操はいずれ楊脩を取り除かねばと思うようになります。
決定的になったのが漢中での「鶏肋」というワード。このことから己の内面を見透かした楊脩への不満が爆発、処刑されます。このように三国志演義では処刑に至るまでの経緯を書かれている楊脩ですが、実は正史ではこの通りではありません。
正史での楊脩の死に至るまで
これは魏書武帝紀の注釈として引かれている九州春秋によるものですが、まず漢中で楊脩が曹操の言った「鶏肋」について、それが撤退の意味であると、たった一人気が付いて撤退の準備を命じた……とあります。
その後、曹操は撤退します。そしてそれから後に楊脩は処刑されました。はっきりとした記述はされていませんが、夏に撤退、秋に処刑という流れのようです。
謎が残る処刑までの流れ
前述したように三国志演義では楊脩の処刑までの流れが事細かに書かれていますが、正史ではどうして処刑されたのかははっきりと記載されていないのです。また三国志演義との違いとして、楊脩が撤退指示をしてから、曹操もまた撤退をしたとなっています。
楊脩自体の伝もないため、細かい所は注釈から引いていくか、推測するしかないのです。とはいえ趙雲などに代表する列伝にあまり本人の記載がない武将もいるので、注釈から引くのは決していけないことではありません。という訳で、九州春秋や世語に載っている楊脩の処刑に至ったと推測される経緯を見ていきましょう。
三国志演義での楊脩処刑までを振り返りながら
三国志演義で出てくる楊脩の処刑までの流れに、楊脩が曹植に曹操から何か尋ねられたらこう返すように、という試験のあんちょこを用意しておいたことを曹丕によって曹操に密告されたことから、曹操に楊脩が警戒されることとなったように描かれています。
これは成語によるものですが、曹丕と呉質が密談していることを楊脩が密告、一度目は曹操は取り合わなかったものの、それを逆に利用されて楊脩が曹操に警戒されるようになるという話が出てきます。個人的にはこれらについて改編して三国志演義でのエピソードに使ったのでは?と思っています。
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