21世紀の日本では、紙幣を刷れるのは日本銀行だけという事はよく知られています。しかし、明治維新の前には藩札と言う藩が独自に発行した紙幣が流通していました。
江戸時代には、300を超える藩があり現在の47都道府県よりも小さい藩でも藩札を発行していた事になります。でも、どうして、そんな小さな藩でお金が発行できたのでしょうか?
そして、なんで藩札なんて発行したのでしょうか?
藩札が発行された背景
江戸時代の日本は三貨制で、金・銀・銭が流通していましたが、これらの貨幣は大坂や江戸のような大都市に集まっていき、僻地の藩では十分な量の貨幣が集まらないという問題が起きていました。
そこで、通貨不足に悩む藩では、藩札を発行する事で貨幣不足を補い、商取引を活発化しようという狙いがあったのです。新政府による明治4年の調査によると、藩札は244藩、14代官所、9旗本領で発行されていて、およそ8割の藩が発行していたポピュラーなものだったのです。
紙切れの藩札はどうして信用された?
藩札は幕府の許可を得た上で発行されていましたが、細長い和紙に額面の金額を印刷したものか、または墨で手書きしたものでした。要するに今の紙幣と同じような形をしていたのです。
でも、鋭い人はここでアレ?と感じるかも知れません。
つまり、藩札の価値は、一体誰が保証しているんだろう?という疑問です。
これが小判や銀貨なら権力がそれを保障しなくても素材が貴金属ですから相応の価値で流通する事が経験的に分かります。でも、今の都道府県より小さな規模の藩が発行した紙切れを藩札と言われても、いつ紙屑になるかと怖くて受け取れませんよね。
しかし、藩札は概ね危なげなく通用していました。それは藩札が、いつでも金、銀、銅銭と引き換えが出来る兌換紙幣だったからです。
兌換紙幣の兌換とは「交換」という意味で、藩札は所有者が申し出れば幕府が発行した額面に即した正規の貨幣といつでも交換できました。藩札の所有者は、藩札が要らないと思えば、いつでも幕府の貨幣と交換できる事が保証されたからこそ、安心して藩札を保有したのです。その為、財政基盤が小さい藩でも、藩札と引き換えるのに十分な金、銀、銅の準備高があれば藩札を発行出来ました。
藩札発行のメリット
藩札の発行には、発行する藩札の33%程度の引き換え用の正貨準備金が必要でした。
あれ100%じゃないの?と思いますが、これが藩札発行の巧妙なポイントです。つまり、貨幣と藩札を引き換えた人は、藩札の信用が安定している限りは藩札を急いで貨幣と兌換しようとはしません。
だから、藩は藩札の33%程度の準備金を用意できていれば、それで十分に換金作業を回す事が出来ましたし、さらには、実際の正金の3倍もの藩札を発行する事で、藩の財政を潤す事が出来たのです。
もう一つ、藩札を発行する時には領内の人々に対して、金銀銅貨の使用を禁止して藩札のみの使用を命じる事がありました。これを専一流通と言います。
こうしてしまえば、領内では幕府の貨幣を使えませんから必然的に領民の持つ貨幣が藩札と引き換えられて藩の蔵に収まり、藩の財政は潤沢になるわけです。
藩札が使えるのは藩内だけで、藩は対外的な決済を幕府貨幣でやるわけですから、領内の金銀銅銭が集められる専一流通は大きなメリットでした。また、混合流通と言い、藩札と幕府の貨幣どちらも領内で使える制度もありました。この場合、藩の収入を越える金額の藩札が刷られると、たちまち藩札の価値の暴落が起きるので、庶民は防衛策に追われる事になります。
藩札発行方法
藩札の発行方法にも2つのやり方がありました。1つは、藩が直接藩札を発行する方法で、もう一つは領内や外の豪商に藩札の発行業務を依頼する請負発行です。
第1の直接発行は、藩札の発行は藩がするものの、引き換え事務を行う札元に城下町や大坂の豪商を起用していました。札元に選ばれた豪商は、藩札と正貨との交換準備用の資金を藩に貸し付ける事で利益を得ます。
第2の請負発行は、有力な商人が藩札発行そのものを請け負い、請け負った商人が藩札と正貨の交換資金の準備と調達をします。藩は、請負商人に運上金を納入させる事で藩札発行の権限を商人に付与していました。
どうして、藩が豪商の力を借りたのかと言うと、藩札は信用が命だからです。少しでも藩札が信用できないと思われれば、領民は藩札を兌換しようと役所に押しかけて取り付け騒ぎが起き、藩から貨幣が全て流出してしまう事になります。そうならない為に豪商のネームバリューと運用のノウハウを借りたのですね。
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