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孫権の存在
赤壁の戦い時点で勝てるかどうかなどは誰にも分かりませんから、あの時点で周瑜たちの言い分はあくまで孫権の、ではなく孫家の……言ってしまえば乱世に名を立てようとした孫堅の、そして孫策の遺志を継いで欲しいという感情があってこそだと思います。
対して張昭らの降伏意見はあくまで孫権の身を思ってのことでしょう。曹操の元で生き永らえることは決して悪い判断ではなかったでしょうから。どちらが正しいという訳ではなく、どちらも色々考えていてのことであり、孫権は結果として戦う道を選び、そして勝利してからの結果。なのでここで今になって張昭のことを持ち出すのはなんとも厭らしいなぁ……とちょっと思ってしまいます。
とはいえ張昭は張昭で中々に口うるさい頑固爺さんなので孫権の態度も分からないでもないのですけどね。
上手くやっていた諸葛瑾
その一方で、上手く孫権の相手をしたのが諸葛瑾です。諸葛瑾は良く孫権を諫める立場でしたが、彼の諫め方は比較的穏やかで、悪く言うとやや対応が甘いところがあります。
しかし張昭らへの孫権への態度を見ると、孫権は言われると反抗したり、その後ネチネチ嫌味を言ったりと余りよろしいものではありません。
そう考えると穏やかに甘やかしてくれる、それでもしっかりやらなきゃいけないところはさせる、諸葛瑾は孫権にとって居心地がよい相手だったのかな、なんて思っています。
失ってから
口うるさい張昭が亡くなったのが236年。241年に諸葛瑾も亡くなります。そして孫権の問題行動はこの頃から起き始めています。前述したように孫権は若くして父と兄を亡くし、それから考えると彼らと一緒に過ごした時間の方が長かったでしょう。
孫権は孫権自身でも気付かないまま、息子や弟のように彼らの存在に甘えていたのではないかと思います。自覚がなかったからこそ、今度は自分がそういった見守る立場にならなければならなくなった時に上手くできなかったのでは……どうしても、そう考えてしまうのですよね。
三国志ライター センのひとりごと
孫権家臣団、当然ながら最初の頃はほとんど孫権よりも年上ばかりです。だから孫権は彼らにとって主君でもあり、かわいい弟分であり、手のかかる息子のようなものでもあったのでしょう。そして孫権もまた、彼らに甘えていたのではないでしょうか。そう思うと晩年の事件は19歳という若さで家を背負った孫権の悲哀が後になってやってきた、とも思わせる、何とも言えない気持ちになって来てしまいますね。
参考文献:
呉書呉主伝 張昭伝 諸葛瑾伝
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