基本的には平和が続いた江戸時代の初期に、日本史上でも空前の反乱がおこりました。いわゆる「島原の乱」です。一般には、暴政を敷きキリスト教徒を迫害していた松倉勝家に対して、耐えかねたキリスト教徒たちが反乱に踏み切ったものと言われています。
反乱の原因となった松倉勝家の暴政というのは、
・みえを張って石高を高めに報告しており、その会計の穴を埋めるために住民に重税をかけていた
・年貢を払えない者の妻や子供を水責めにして催促するという非道なことをやっていた
などといったもの。
まるで時代劇の「悪大名」そのままのイメージに見えますし、これだけひどいことをやっていたのなら反乱も起こるだろう、と納得もする話です。
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江戸時代を通じて「斬首刑」を食らった唯一の大名?
この松倉勝家という人物は、哀しい「記録」保持者でもあります。島原の乱の鎮圧後、彼は幕府から責任を追及されるのですが、下った処罰は、なんと斬首。一般に、江戸時代を通じて大名が斬首にされた例はこの一件のみ、とされています。
普通、大名に死罪が下される場合、本人の名誉のために最低でも形だけは「切腹」となるのは、時代劇や歴史小説でもよく描かれている通り。ところが松倉勝家に対しては斬首という処分です。幕府がどれだけこの反乱の責任を重視し、松倉勝家に特別過酷な扱いをしたか、よくわかります。
松倉勝家の言い分:ただの反乱ではなく戦国最後の合戦だったのだ!
ですが松倉勝家にも言い分はありました。江戸幕府から「あれほどの一揆の原因をつくったとはナニゴトか」と責任を追及されたとき、勝家の反論は、「あれはただの百姓たちの一揆などではなかった。プロフェッショナルの軍人も反乱軍の中にいた。もっと深刻な、権力への挑戦だったのだ」といったものでした。
たしかに、最近の研究(神田千里著『島原の乱(中公新書)』)によると、この反乱で頭領にかつぎあげられた天草四郎時貞の周りを囲んだ幹部級の反乱リーダーには、「かつての有馬家の牢人たちが多かった」とのことです。
旧有馬家の牢人ということは、かのキリシタン大名、有馬晴信の家臣たちではないかと推測できます。重税に苦しんだ農民たちの反乱などではなく、
「いまいちど天下に一旗をあげん」とする牢人たちが結集して画策した、大阪の陣にも匹敵するような「牢人たちの幕府体制に対する挑戦だった」というのが、勝家の言い分というところでしょうか。
しかし幕府は聞く耳を持たず、松倉勝家の責任を厳しく追及し、斬首という判断を下しました。もしかしたら松倉勝家は、
「自分の領土を治められない奴はこうなるのだ」と、幕府に見せしめとして斬首にされたのでしょうか?
実はやらなくてもよかった?江戸時代初期におけるキリスト教徒迫害の裏事情
ですが前掲の『島原の乱』(中公新書)には、さらにオドロキの研究結果も含まれています。松倉勝家の父、松倉重政の時代の前半には、実はキリスト教徒への弾圧はあまり過酷なものではなかった、というのです。実際、松倉重政は、タテマエでは幕府の命令に従ってキリスト教徒弾圧を掲げつつ、少なくともその前半生のうちには、わざと宣教師を生きたまま国外脱出させたり、キリスト教側にもかなり寛大な、バランスの取れた処遇をしていた、とされています。
どうやら松倉重政に限らず、キリスト教徒への弾圧が激しくなるのはむしろ島原の乱以降であって、それまでの大名は幕府のキリスト教禁教令には従いつつも、
「あまりやりすぎない程度に締め付ける」というバランス感覚を示していたようです。
ところが松倉勝家の場合は、
「年貢を払えない者の妻子を水牢に入れる拷問をやっていたという点も含めて、暴政はどうやら事実」と言われています。
キリスト教を弾圧していたとされてきた多くの大名が、「実は裏ではキリスト教徒たちをあまり追いつめすぎないように気も遣っていた」という新説が出てきている中で、松倉勝家だけは「ひどい弾圧をしていたのは事実」とされている事態。これはかなり松倉勝家には不利な話ではないでしょうか?
そもそも反乱側に有馬家の旧臣がいたのは有馬晴信の人望の勝利?
もうひとつ、最近の研究からは、松倉勝家にとって不利な話が出てきています。島原の乱に参加したキリスト教徒たちの多くは、一度はキリスト教を棄教した人たちだった、という説です。
「キリスト教は禁教である!」とお上に命令されて、
「仕方ない」とスナオに棄教した人たちが、わざわざキリスト教に再入信して反乱を起こしたのは、どういうことなのでしょうか。
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