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戦国時代YASHIROの独り言
やはり、松倉勝家の暴政が引き金になり、
「キリシタン大名の統治時代がなつかしい」という気持ちが高まった点があったのではないでしょうか?
松倉勝家が「別にやらなくてもいいほど苛烈な弾圧」を続けていて、それが反乱の一因になったとすると、これはたしかに、幕府の責任追及も厳しくならざるを得ません。
「お前が余計なことをしなければもっと穏便に済んでいたのではないか?」というわけですね。
では有馬家の牢人が続々と参加していたのはなんだったのでしょう?
これは個人的な推測ですが、やはり有馬晴信の時代を懐かしむ人たちが多く、それと比較しての「アンチ松倉勝家」感情で、牢人たちの団結が起こったのではないでしょうか。
だとすると松倉勝家と有馬晴信の人望の差が出た、という解釈も可能になり、これはこれで、松倉勝家の評価には厳しい話になってしまうのでした。
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